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コスト意識 英国仕込み
1953年、カルナタカ州マンガロール生まれ。67年に世界で初めて人間の心臓移植手術に成功した医師、クリスチャン・バーナード氏のニュースに触れたのをきっかけに外科医を目指すことを決めたという。インドのKasturba Medical Collegeを卒業後、コルカタの病院で勤務。その傍ら83年から英国の病院でも心臓手術の経験を積み、マザーテレサの担当医になった。 ちょうどその頃、サッチャー首相の下で英国政府は医療費予算の削減に取り組んでいた。勤務していた病院の上司が政府に呼ばれて意見を求められることが多く、その資料作りなども担当。そこでコスト意識と、保険制度の適切なあり方について学んだと振り返る。89年に帰国後、2001年にバンガロールに病院を設立した。 3男1女の父親。米スタンフォード大を出た長男(28)は現在、一緒に病院で働く。次男(26)、3男(23)、そして長女(21)の夫も医師。実兄も産婦人科医。 学生時代、空手に出会った。手術で必要とされる「集中力と持久力」を学んだといい、「全ての若者は空手を習うべきだ」とまで言い切る。 インドの医療インフラの普及のために、世界を飛び回る多忙な日々を送るが、たまの休暇には妻(50)とバンガロールから直行便が飛ぶモルディブへ足を運ぶ。「何度行ったか数知れない。あそこは世界で一番美しい場所だね」。61歳。 |

さしずめ「メスを持つ『マザー・テレサ』」といったところか。
刺すような日差しが照りつけるインド南部バンガロール。名だたるIT(情報技術)企業が本社を構えるこの地で、貧困層向けを中心に心臓病など4つの専門病院を展開する「ナラヤナ・ヘルス病院グループ」を経営する。病院内は日焼けした労働者や農民、サリー姿の母親に抱かれた子どもであふれる。
30年ほど前、英国仕込みの気鋭の心臓外科医として活躍していたころ。勤務先の東部コルカタの病院に、運命を変える電話が入った。「診察してもらいたい患者がいる。あなたの人生を変える出会いになるはずです」。心臓を病むマザー・テレサの側近からの匿名の電話だった。
「神は心臓に問題を持つ人間もお作りになられた。あなたはそんな人々を救うために天から送られたのね」。施術後、マザー・テレサが耳元でささやいた言葉が、その後の人生を方向づけた。
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外科の中で最も難易度が高いとされる心臓手術。ナラヤナグループの平均的な施術料は15万ルピー(約25万円)とインドの一般的な病院の半額だ。今後7~10年で8万円程度に引き下げるという。
「『心臓手術のヘンリー・フォード』とでも呼んでください」と笑う。フォードは大量生産方式でコストを劇的に下げ、富裕層のぜいたく品だった自家用車を大衆化した。心臓手術の効率化とコスト削減に同じ発想を持ち込む。
バンガロールの心臓病の病棟では毎日、バイパス手術や動脈閉塞の手術が25~30例も行われる。手術室は23。30人以上の心臓外科医らが週6日、交代で午前6時から午後10時まで猛烈に手術をこなす。給与は他の病院の半分以下。「一人でも多くの命を救う」という使命感と、症例数をこなし腕を磨きたいという向上心が支えになっている。
医師や看護師の手術着はインドのベンチャー企業が独自に製造したプラスチック製の使い捨てで、一着900ルピー(約1500円)。術後の患者は「大部屋」で体力の回復を待つ。小児病棟では胸の縫合の跡も痛々しい子どもらが寝るベッドの間を医師や看護士が縫うように歩きまわる。
コスト削減と並ぶ「大衆化」の原動力が独自の保険だ。
保険の普及に乗り出したのは2000年ごろ。地元の牛乳協同組合から、心臓病のリスクを抑える低脂肪牛乳の普及のスポンサーを頼まれたのがきっかけだった。かねて心臓手術の治療費の高さや大都市でしか施術を受けられないことに心を痛めていた。「祈りを唱える『唇』より、実際に奉仕する『手』の方がより畏敬に値する」。言葉ではなく行動を。マザー・テレサの言葉がまた背中を押した。
スポンサーを引き受ける条件に、組合に加盟する酪農家らを対象とした保険の立ち上げを提案。地元のカルナタカ州政府も賛同し、こうしたスキームが瞬く間に広がった。
現在、同様の保険の加入者は300万人に拡大し、掛け金は貧しい農民でも支払える月額10~12ルピー(約17~20円)程度まで下がった。「規模の拡大で経費を抑えれば、一人ひとりは少しずつの金額を払うだけで高額な医療サービスにたどり着ける」
「我々の仕組みは保険のコンセプトを変える」。新興国発のビジネスモデルとして中東やアフリカ諸国への応用が注目されるが、実は先進国をも視野にとらえている。財政悪化や格差拡大で先進国でも低所得者に医療サービスが行き届かない現状を危惧する。
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2月末にはカリブ海の英領ケイマン諸島に病院を開業した。生活習慣病から心臓を患う人が多い米国。米国に近く、安くて高度なサービスを提供する場所として選んだ。ケイマン政府と交渉してインドの医師免許による医療行為を認めさせ、労働条件もインドに準じる仕組みを確保した。
「外科医はいわばアーティスト。手術をしているときが最高の瞬間」。60歳を過ぎた今も、1日最低1~2件の手術をこなし、60~80人の患者を回診する。いつでも手術室に飛び込めるよう、青い手術着に帽子をかぶったままデスクワークもこなす。
院長室にはタタ財閥を率いたラタン・タタ氏の言葉を飾る。「もし早く歩きたければ、一人で行きなさい。もし遠くまで歩きたければ、誰かと一緒に歩きなさい」――。相互扶助の精神こそ医療と保険の原点だと信じている。
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家族の支え原動力に
1961年、山西省応県生まれ。91年に渡英し、94年にオックスフォード大で博士号取得。米ハーバード大の博士研究員を経て母校オックスフォード講師に。2004年、中国政府の招請で中国科学院微生物研究所の所長に。現在の役職は重点実験室の主任。 「とにかく科学が好きで好きでたまらない」。現在は中国科学院の重点実験室の責任者として、複数の研究プロジェクトを取り仕切る。時に時間を顧みず、仕事に没頭する。研究室に籠もり、徹夜で論文を書くことも多い。自他共に認める「科学狂」だが「好きなことを突き詰める。これが働くことの最も大きな原動力」だという。 とはいえ、仕事以外の支えも必要。それは何か聞いたところ、「家族だよ、もちろん」。実は、妻も息子も現役の研究者。妻はオックスフォード大で化学を、息子は英ケンブリッジ大学で生物化学をそれぞれ研究している。「家族が私を理解してくれている。好きな科学を続けられるのも、家族がいるからだね」。こう答えた時は真顔になっていた。52歳。 |

ウイルス研究の世界的権威と知って会った人は、あまりの快活さに驚くだろう。「ドーモ、ハジメマシテ。発音合ってる?」。屈託の無い人当たりの良さは苦労知らずのエリートを思わせるが、実際に歩んできたのは苦難の道だ。
貧しい農村に生まれ、物心つけば文化大革命の嵐。高校生の時、大学入試が10年ぶりに再開され、例年の数倍の志望者が殺到。ようやく試験に合格すると、希望と全く違う専攻を割り当てられた。
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「腐って遊びほうけるか、自分のしたいことを勝ち取るか」。学生生活を謳歌する同級生を尻目に寮に一人籠もり、研究書のページをめくり続けた。執念が実り、念願の微生物学と感染症学の専攻へ。30歳で英国との交流奨学金の対象に選ばれ、英オックスフォード大留学の道を開いた。
専門はウイルスの立体構造解析だ。肉眼では見えないインフルエンザウイルスなどの姿を3次元で再現する。
研究はフラスコとビーカーが相手の地味な作業の繰り返しだ。研究対象のウイルスを培養し、精製して結晶化。結晶にエックス線などを当て、電子などの散らばり具合からウイルスの形を特定する。良いデータが取れなければ作業は振り出しの培養に戻る。
球体から短い突起物が無数に飛び出した、まがまがしいインフルエンザウイルスの姿も、こうした地道な研究から導き出された。立体構造が分かれば、薬の作用を視覚的に類推できる。高らが手がける「見える化」は新薬開発のスピードを劇的に引き上げた。
研究者として成功した後も、組織作りで再び辛酸を味わった。2004年に中国科学院から招請を受け、同科学院微生物研究所の所長に就任。海外に散らばった優秀な研究者100人を国内に引き戻す中国政府の「百人計画」の一環で、大抜てき人事だったが、壁にぶつかった。
「競争がなければ進歩もない」。そう信じる高が機構改革を始めると「あなたの考えにはついていけない」と人がどんどん辞めていった。当時の微生物研究所は研究テーマの割り当て、報酬、昇進制度など何事も横並び主義で、まるで中国の国有企業だった。それでも逆風にめげず「ここを世界トップの研究所にしよう」と残った同僚らを説得し、改革を引っ張った。
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研究者としても成果を出し続けた。鳥インフルエンザウイルス「H5N1型」の異種間の感染メカニズムをいち早く解明。重症急性呼吸器症候群(SARS=サーズ)、鳥インフル「H7N9」と、新型ウイルスについて新説を次々発表してきた。
いま一番期待を寄せるのが、05年から続ける東京大学医科学研究所との共同研究。日中関係の悪化で一時は存続が危ぶまれたプロジェクトだ。昨年9月に完成した共同研究施設は建設まで曲折があったが、高が反対論者を説得して実現にこぎ着けた。
「感染症に国境はない。DNAが近いアジア人同士なら、なおさらね」。日本人研究者らと手を組んでエイズウイルス(HIV)などの感染メカニズムの解明が進む。「あきらめなければ、何でもできる。日中関係だってそうでしょ」
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国王のいとこ 財団支え
メーファールアンとはタイ語で「母堂が空からやってくる」という意。国民の尊敬を集めるプミポン国王(ラマ9世王)の母・シーナカリン妃殿下が資金を拠出し、貧困にあえぐ人々の生活向上を支援する非政府組織(NGO)として1972年に設立された。当初は手工芸品の買い上げや教育支援が主な活動だったが、88年に始めたドイトゥン開発プロジェクトの成功により、海外からもその活動が知られるようになった。ドイトゥンの経験を生かし、ミャンマーやアフガニスタンでも同様の事業を支援する。 財団の実務を取り仕切るディスナダ・ディッサクン氏はラマ4世王のひ孫で、現国王のいとこにあたる。欧米留学を経て64年、タイの内閣府に相当する国家経済社会開発委員会に入庁した。3年後、28歳の時に国王直々の要請を受け、妃殿下の私設秘書に転じる。95年に妃殿下が逝去するまで「朝起きて夜眠るまで、息子である国王陛下よりずっと長くそばにお仕えした」。 財団設立後は事務局長に就任、ドイトゥン計画でも責任者として奔走してきた。当初は「王族に貧しい少数民族のことを理解できるはずがない」という陰口も耳に入ったが、構わず辺境の地に飛び込み、地元住民と対話を重ねた。住民の要望を知ろうとする姿勢と飾らない人柄で、信頼を勝ち取った。 財団の副事務局長である妻と、2人の息子がいる。大の親日家で年に4回は一家で日本旅行を楽しむ。74歳。 |

タイ最北部チェンライ県。午前8時、霧が立ちこめる木立の間に、軍手に長靴姿の女性たちが散らばって行く。マカダミアナッツの実を拾っては袋へ収めるきつい作業は日暮れまで延々と続く。標高千メートルの山岳地帯にナッツ農園は6つ。そのうちのひとつ、約60ヘクタールの畑の責任者を務めるソーホンさん(28)が「1人が1日に100キログラム以上は収穫します」と教えてくれた。
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メコン川を挟みミャンマー、ラオスと接する緑豊かなこの地には30年ほど前まで、荒涼とした風景が広がっていた。「黄金の三角地帯」と呼ばれ、焼き畑でケシを栽培する無法地帯だったのだ。
それを一変させたのが1988年、タイ王室系のメーファールアン財団が地名を冠して始めた「ドイトゥン開発プロジェクト」。辺境の荒廃に心を痛めたプミポン国王の母、故シーナカリン妃殿下が自ら持つ財団を活用し、森林再生と麻薬根絶に着手した。
一帯に暮らすのはアカやラフー、中国雲南など6つの少数民族約1万人。「彼らはひたすら貧しく、何も持っていなかった」と同財団のディスナダ事務局長。地元住民の働く場所をつくり、ケシ栽培と貧困を同時に解消する30年プロジェクトが動き出した。
1万5千ヘクタールの広大な山間部の再生に選んだのはマカダミアナッツとコーヒー豆。前者はいったん育てば100年間収穫でき、後者は日光の届きにくい木陰でも栽培できる。女性たちには紙すきや手織り、陶芸も教えた。工房では常時100人以上が少数民族独特の刺しゅうを施した織物やカバン、コーヒーカップなどを作る。北欧からデザイナーも招き、ただの民芸品にとどまらない手工芸品に育てた。
プロジェクトの大きな特徴は、自前の小売りルートを開拓したことだ。「ドイトゥン」のブランドを冠してカフェや雑貨店を展開。バンコク中心部や空港内など15店を数え、財団と親交の深い茨城県の病院内にも出店している。コーヒーからナッツを加工したケーキやクッキー、カップや皿まですべて自家製だ。
小売りまで押さえることで「より大きな利益を得られ、品質やブランドもコントロールできる」とディスナダ事務局長。コーヒーを生豆で売れば1キログラムあたり約56円(2013年時点)どまりだが、カフェで飲料として提供すれば同2万5千円。付加価値は450倍に跳ね上がる。
発展途上国の産品を適正価格で購入・販売する「フェアトレード」は世界で広まりつつあるが、買い手の善意に依存するもろさもはらむ。川下まで自ら手がける財団の手法は「フェアリテール」とも呼べる斬新な試みだ。
活動は経済にとどまらない。国籍を持たなかった少数民族に政府の身分証を発行、医療や福祉などの公共サービスを受けられるようにした。教育も重視し、高校修了課程を含む8校を運営する。
「かつてこの地に仕事は2種類しかなかった。ケシの栽培か、国境をまたいだ武器の運び屋だ」。自らも違法行為に手を染めていたという雲南族のウィーラチットさん(51)は「最初は誰も計画を信じなかったが、道路が通り、電気がきて、職場までできた。財団が来てくれなければ、私はこうして生きていなかったかもしれない」と振り返る。
計画の成功は数字が雄弁に物語る。一連の事業は01年に黒字転換し、現在の売上高は年約16億円。人件費などを差し引いても5%分の利益が残り、設備投資や学校補助金などに回せるようになった。地元住民の世帯年収は当初の855ドルから10倍の8749ドル(10年)に膨らみ、大卒者も25倍の900人弱に増えた。
国連薬物犯罪事務所(UNODC)は03年、ドイトゥン開発計画を「麻薬撲滅に世界で最も成功した事例の一つ」と認定している。
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計画の期限である2017年以降は主体を地元住民へと移す方向だ。地元民はこれまで作物を財団に売ったり、財団から給料を得たりするだけで、事業リスクは財団が引き受けてきた。財団がすぐ手を引くわけではないが、ディスナダ事務局長は「いずれ地元住民が株主として参画してもらえるようになれば」と語る。
貧困から抜け出した人々がリスクを分担する自律した担い手になる――。新しい形へ進化したとき、タイが世界に問いかけるフェアリテールが持続的なモデルとして再び脚光を浴びるだろう。