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歴代の受賞者

日経
アジア賞
1996-2020

日経アジア賞 歴代受賞者(1996-2020)

「日経アジア賞」は、日本経済新聞社が1996年、「日本経済新聞」の創刊120周年を記念して創設した表彰制度です。アジアの発展と繁栄に貢献した人や団体に光をあてることを目的にしていました。
*肩書き、団体・組織名はいずれも受賞当時のものです

  • 25th Winners

    2020

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    • 経済部門

      タン・フイリン氏 (左 - 左の人物)
      アンソニー・タン氏 (左 - 右の人物)

      米ハーバード大経営大学院留学中に意気投合した2人は卒業後に配車アプリを立ち上げ、食事や食料品の宅配、スマホ決済も手掛ける。ダウンロード数は1億8千万を超え、東南アジアの市民生活に必須のアプリに育てた。

    • 科学技術部門

      タラッピル・プラディープ氏 (中)

      ナノテクノロジーによる水質浄化技術の先駆者。脱イオン化の手法を確立し世界初の飲料水用フィルターを開発した。インドで1リットル当たり2パイサ(約0.03円)のコストで浄化された水を供給する。

    • 文化・社会部門

      ラム・プラサド・カデル氏 (右)

      自国の伝統音楽・芸能の消滅に強い危機感を持ち、継承のための活動を精力的に展開。私財を投じた楽器資料をもとに、私設の楽器博物館をカトマンズに設立した。伝統音楽の研究、記録保存、普及で成果を上げた。

  • 24th Winners

    2019

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    • 経済部門

      ナディム・マカリム氏 (左)
      ゴジェック創業者・最高経営責任者(CEO)・インドネシア

      インドネシアでスマートフォンによる二輪車配車サービスを開始。 宅配や電子マネーのサービスも展開し、市民生活を大きく改善した ほか雇用創出に貢献した。

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      ナディム・マカリム氏 (左)

      二輪配車で市民生活一変

      インドネシアのスタートアップ企業の旗手として知られる。スマートフォン(スマホ) を使った二輪タクシーの配車や宅配、電子マネーサービスを主にインドネシアで手掛け る。米CBインサイツによると、世界で19社しかないデカコーン企業(企業評価額100億 ドル=1兆1000億円超ドルの未上場企業)に成長した。

      ゴジェックは二輪タクシー配車や宅配の総取扱高100億ドル、登録ドライバー数180万人 、月間の飲食宅配数3000万件。総取扱高は2年間で13.5倍に急成長した。飲食の宅配では 世界3位になり、電子マネー「ゴーペイ」は同国最大級のサービスに育った――。

      だが、そんな数字よりも重要なのは、ゴジェックがわずか数年でジャカルタを中心とし たインドネシアの交通や宅配、金融サービスなどを根本から変え、インドネシアに住む 人にとって欠かせない生活密着サービスになった衝撃の大きさだろう。

      ナディム・マカリム氏は生活のあらゆるシーンで使える「スーパーアプリ」という言葉 を好んで使う。そして「ゴジェックは米国にも中国にもない世界で最初のスーパーアプ リだ」と宣言する。

      世界最悪とも形容される首都ジャカルタの交通渋滞に代表されるように、インドネシア の都市に共通する課題は公共交通の発達の遅れだ。3月末にジャカルタで初の地下鉄が一 部開業したが、ほかの都市では移動手段は限られる。主に二輪車を使い、安価に移動手 段や宅配手段を提供した意義は大きい。今では低所得者から富裕層まで、子供から大人 までが利用するサービスとなった。

      恩恵を受けるのは消費者だけではない。これまで多くが貧困にあえいでいたバイクタク シーの運転手がゴジェックの運転手になることで、収入は増え、生活は安定した。一人 ひとりの運転手が、ゴジェックの様々なサービスを提供する「マイクロアントレプレナ ー(個人事業主)になった」(ナディム氏)。

      実際、ジャカルタの中心部を歩けば、ゴジェックの緑のジャケットを着たドライバーを よくみかける。彼らは人を運ぶ運転手であり、荷物を運ぶ宅配員であり、金融サービス を手掛ける銀行員でもある。

      ナディム氏の起業のきっかけはインドネシアに昔からある二輪タクシー「オジェック」 をテクノロジーを使って効率化できないか、という問題意識だった。渋滞を避けて時間 通りに移動できる利点はあったが、運賃は乗るたびに異なり、乗りたいときに乗れるわ けでもなかった。オジェックには特定の「縄張り」があり、営業できる区域が限られて いたからだ。ドライバーは特定の場所で客を待たねばならず、収入はわずかだった。

      「待ち時間をなくせば、ドライバーの収入は上がり、運賃も下げることができる」。ナ ディム氏はドライバーと利用者を仲介するビジネスを思いついた。米ハーバード大経営 大学院で社会起業家などの最新のビジネスモデルを学び、帰国後、ゴジェックを立ち上 げた。最初はコールセンターを使った配車方式だったが、2015年にスマホのアプリを導 入。スマホで簡単に配車できるようになった。

      ナディム氏は「ゴジェックの成功はドライバーのみなさんの努力なくしてはなかった」 とドライバーに賛辞を贈る。

      ドライバーだけでなく、宅配の注文を受ける屋台などの小店舗もゴジェックとともに成 長する。従来の商圏は半径数百メートルだったが、スマホ経由の注文を受けることで商 圏を大きく広げた。多くの店が新たに得た収入を事業拡大のための投資に回していると いい、インドネシア大学の調査では18年のゴジェックの経済効果は44.2兆ルピア(約 3500億円)とされる。「ゴジェック経済圏」は広がり続けている。

      インドネシアで生まれた革新的な産業に政治家や国民も喝采を送る。ジョコ大統領の腹 心のルフット海事担当調整相は「インドネシアのシンボルだ」として支援を惜しまない 。18年から海外進出を始め、ベトナムやシンガポール、タイでサービスを始めた。イン ドネシアを飛び出し、東南アジアや世界の人の生活を変える挑戦が始まっている。(ジ ャカルタ=鈴木淳)

      ミレニアル消費、自ら証明
      インドネシアのミレニアル世代(1980-2000年ごろ生まれ)を代表する起業家で、若者 のあこがれの存在だ。84年にシンガポールでインドネシア人家庭に生まれた。ジャカル タやシンガポールで青年時代を過ごし、米ブラウン大を卒業後、米系コンサルティング 会社などで働く。

      転機は09年の米ハーバード大経営大学院への進学だ。ここで後にゴジェックに合流する 同年代のインドネシア人起業家たちと知り合う。その交流のなかで、ジャカルタでよく 使っていた二輪タクシー「オジェック」を改善し、消費者と運転手の双方にとって価値 のあるサービスにすることを思いつく。

      シンガポールの同業、グラブの創業者、アンソニー・タン氏もハーバード時代の同級生 だ。最近は話すことも少なくなったというが、「グラブとの競争がなければここまで我 々が大きくなることもなかった」と述べた。両社がインドネシアなどで激しい競争を繰 り広げていることが市場を大きくしている。

      だが、真のライバルはグラブではなく、「古い習慣だ」と明言する。自分で車を所有し たり、現金を使ったりする習慣を打破して、「新しい消費スタイルに変化させる」。そ れを証明するため、自らも自社サービスで二輪タクシーを呼び、ジャカルタを駆け巡っ ている。

      <2019年4月29日 日本経済新聞朝刊>

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    • 科学技術部門

      廖一久(リャオ・イーチュウ)氏 (中)
      台湾海洋大学終身教授・台湾

      1968年、世界で初めてブラックタイガーの人工種苗生産に成功。こ れを機に東南アジアでエビ養殖産業が発展し、養殖漁民の所得増に つながった。

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      廖一久(リャオ・イーチュウ)氏 (中)

      エビ養殖 アジアの食育む

      祖母と母は日本人。頓知話の「一休(いっきゅう)さん」に名前の由来を持つ。台湾海 洋大学終身教授、廖一久氏は台湾と日本を行き来した研究者人生を「運命的だ」と振り 返る。日本の研究蓄積を採り入れ、1968年に「ウシエビ」(ブラックタイガー)の人工 繁殖に成功。台湾で「エビ養殖の父」と称される。

      台湾が日本統治下にあった36年、父親の留学先の東京で生まれた。第2次世界大戦の戦禍 の拡大を受け4歳時に台湾中部・台中の一族のもとに戻った。廖家は政治家を輩出する名 門だ。

      水産研究を志す原点は、幼少期を過ごした屋敷内の池だ。「掃除のため水を抜くと、隠 れていた環境や生態にひき付けられた」。大学は台湾で最難関の台湾大学の動物学科に 進んだ。

      大学生当時は政治の道も意識していたが、本人が「挫折」と語る出来事が起こった。台 湾は45年の日本の敗戦に伴い、中国大陸から渡ってきた中国国民党の一党独裁支配下に あった。民主的な手続きなしに総統再選を続ける蔣介石氏に憤り、蔣氏のポスターにペ ンでバツを付けたことが露見。警察に逮捕されたのだ。

      「『緑島』に送られると思った」。多くの知識人や民主活動家を収容し、再教育を行う 「監獄の島」と恐れられた離島だ。一族が手を回し難を逃れたが逮捕歴は消せない。政 治をあきらめ、62年にアジアで最も水産研究が進んだ日本の東京大学大学院に留学した 。そこで生涯の恩師とあおぐ養殖研究の第一人者、大島泰雄教授と出会った。

      大島氏からはクルマエビの食餌の研究を命じられ、「対象の生き物だけでなく、環境か ら徹底的に研究する手法をたたき込まれた」。1週間ほぼ睡眠も取らず観察を続けたこと もある。

      エサや水質などエビの生育環境を解明した論文が高く評価され、博士号を取得。その後 はクルマエビの養殖の基礎を築いた研究者、藤永元作氏の施設で養殖のノウハウを学ん だ。戦後日本の復興への使命感に燃える学友との出会いで「負けられない。自分も養殖 で台湾の食卓を豊かにしたい」との思いが強まっていた。

      68年に帰台して南部・台南の公営水産試験場に着任すると、早速エビの養殖に着手した 。生育の早い「ウシエビ」を選び、わずか数カ月で人工種苗による完全養殖に成功。「 日本での学びが役に立った」と話す。

      高級品のエビを一般家庭に普及させるには、養殖産業の育成が必要だ。養殖のあらゆる ノウハウを記した冊子を作成し業者に配って歩いた。87年に台湾のエビの年間生産量は 10万トンと60年代の10倍に増え、日本などへの輸出基地となった。

      「金もうけには興味はない」といい、研究成果は特許などで囲い込まなかった。台湾大 学教授などを歴任し、東南アジアなどの海外留学生に惜しみなくノウハウを伝授した。 帰国した学生や海外進出した台湾業者が担い手となり、東南アジアでエビ養殖が普及。 さらにボラなど多くの魚の養殖で実績を上げてきた。

      一久氏は「遺伝子組み換えなど安易な養殖手法が台頭し、環境全体への想像力が欠けて きている」と懸念も口にする。実際、業者が対策を怠りエビの病気がまん延したり、環 境破壊をもたらすなど負の側面も出た。「水産研究は環境や社会全体の視点から取り組 まなければならない」と話す。

      それでも功績は色あせない。一久氏は「日本と縁の深い自分が、日本の研究蓄積を広く 発展させられたことに、運命を感じる」と感慨をにじませた。(台北=伊原健作)

      妻と二人三脚で研究
      「研究対象で親しみのある『ウシエビ』は自分では食べる気にならないんです」。笑顔 を絶やさず、語り口から優しい人柄がにじみ出る。研究室に閉じこもらずに産業界など と積極的に関係を築き、水産研究と養殖産業の発展に尽力してきた。

      生い立ちは1895-1945年に日本が台湾を統治した歴史と切り離せない。祖父の廖西東氏 は日本から派遣された台湾中部・台中の行政トップ、佐藤謙太郎氏の通訳を務めた。そ の縁で父親の廖忠雄氏は佐藤氏の末娘と結婚し、一久氏をもうけた。

      親族内ではいまも日本人と結婚するケースが目立つが、一久氏は台湾初の女性水産研究 者と呼ばれる趙乃賢氏と結婚した。二人三脚で研究に当たり、多くの成果を生み出した 業界の大物カップルとして有名だ。一久氏は82歳の今も台湾海洋大学の終身教授などと して、後進の育成や研究に取り組む日々を送っている。

      <2019年4月29日 日本経済新聞朝刊>

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    • 文化・社会部門

      シネマラヤ財団(団体表彰) (右=代表 アントニオ・コファンコ氏)
      フィリピン

      フィリピン初の大規模デジタル映画祭を創設。審査対象を企画・脚 本とし、勝った応募者に制作費を援助して出展させる方法で多くの 才能を発掘した。

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      シネマラヤ財団(団体表彰) (右=代表 アントニオ・コファンコ氏)

      映画産業再興 若者導く

      アジア有数の映画大国として国際的に脚光を浴びるフィリピン。15年前に「映画産業は 死んだ」といわれたが、その再興に大きな役割を果たしたのが、非営利団体「シネマラ ヤ財団」だ。年1回開催する「シネマラヤ・フィリピン・インディペンデント映画祭」を 通じて若手映画人を支援、育成し、優れたインディーズ映画を世界に送り出してきた。

      首都マニラの湾岸沿いにあるフィリピン文化センター(CCP)はマルコス独裁政権下の 1969年に建てられた。至るところで老朽化が目立つが、毎年8月上旬には、10日間ほど開 催されるシネマラヤ映画祭目当ての若者らであふれかえる。

      財団は2005年に発足した。当時、フィリピンの映画産業は衰退していた。04年に製作さ れた35ミリフィルムのフィリピン映画は54本と、200本以上あった1990年代後半に比べ て大幅に減っていた。恋愛コメディーや勧善懲悪のヒーローものなどワンパターンの内 容ばかりで、客足は遠のいていた。

      「まず自主製作映画づくりを後押しする流れをつくることが必要だ」。著名な女優・映 画監督でフィリピン映画振興評議会会長(当時)のローリス・ギリエン氏は、同評議会 役員でCCP館長(同)のネストール・ハルディン氏とどうしたら映画産業を再生できる か、話し合った。商業映画を中心とする映画祭はあったが、若手のクリエーターが自由 な発想でつくる映画を集めて上映したいと考えた。

      資金面での支援で名乗りを上げたのが、ドリーム・サテライト・テレビなどを傘下に持 つ大手財閥のアントニオ・コファンコ氏だ。番組のコンテンツを探すなか、質の低い内 容ばかりの自国の映画産業に不満を抱いていた。ギリエン氏らから資金支援を打診され た時は二つ返事で引き受けたという。「条件は、映画製作経験が1、2本と少なく、世間 に訴えたいストーリーを持つ若手の映画人に光を当てることだった」

      3人が共同創業者となり、コファンコ氏が寄付した1100万ペソを含めた2500万ペソ(当 時のレートで約6千万円)の予算で財団が発足した。コンペで選ばれた企画に製作費の一 部(50万ペソ)を拠出する仕組みを世界に先駆けて採用した。フィルムからデジタルへ と撮影方法が変わったことで低コストで製作できるようになったこともあり、応募が殺 到した。

      これまでに世に送り出した監督は200人近くいる。約300の長編・短編の映画のなかから 海外で評価される作品も誕生した。第1回参加作品で、性的マイノリティーがテーマの「 マキシモは花ざかり」(アウラエウス・ソリト監督)はベルリン国際映画祭などで賞を 次々に受賞し、100カ国以上で上映された。第5回参加でペペ・ジョクノ監督のデビュー 作「クラッシュ」はフィリピンではびこる超法規的殺人を取り上げ、ベネチア国際映画 祭で新人監督賞を受賞した。

      参加作品は、フィリピン社会の抱える問題に目を向け、社会的なメッセージを打ち出し ている内容が多い。スラム(貧困街)やスクウォッター(不法定住者)、ストリートチ ルドレン、児童労働、違法薬物、売春、組織犯罪などのテーマは繰り返し取り上げられ てきた。また、従来の映画はマニラが中心で地場の言語のタガログ語が使われていたが 、地方を舞台に地方の言語に字幕を付けて上映される作品も多く、多様性に富むのも特 徴だ。上映会場はCCP以外にも広がり、累計で約70万人を動員した。

      シネマラヤに触発されて、10を超える映画祭が立ち上がった。カンヌなど著名な映画祭 の常連となったブリランテ・メンドーサ監督も自ら映画祭を立ち上げ、若手を育成して いる。娯楽映画が量産された1950年代は「第1黄金期」、マルコス政権の戒厳令下で社会 派作品が生み出された70年代は「第2黄金期」と呼ばれるが、シネマラヤが始まった05年 以降は「第3黄金期」といわれ、映画産業は一段と活気づいている。

      「商業的な利益を上げているわけではない。だが自由な映画製作環境を提供し、人々が フィリピンで起きていることに目を向けるきっかけを提供したい」。コファンコ氏はシ ネマラヤの一段の発展を期待する。(マニラ=遠藤淳)

      脚本、撮影の手ほどきも
      シネマラヤ財団は設立から11年目を迎えた2015年、映画製作に関するノウハウを教える プログラム「シネマラヤ・インスティテュート」を始めた。毎年、映画祭の前の2、3カ 月間、脚本作成や映画製作などの講座をフィリピン文化センター(CCP)で開講している 。海外からも専門家を招き、映画産業の門戸をたたく若者に手ほどきをする。

      映画製作コースでは、座学と実技の講義を行い、受講生に無声映画を製作してもらう。 マネジメントコースでは撮影に必要な各種の許認可や出演者の調整、資金管理、著作権 などの法的権利について学ぶ。

      「多くの卒業生が出ており、映画製作で必要になれば、脚本家、監督、プロデューサー などを紹介できる」と、アントニオ・コファンコ氏は話している。

      シネマラヤが活動してきた15年間で復活を果たしたフィリピンの映画産業。ローリス・ ギリエン氏は「政府などからも支援を得て、活動を加速させたい」と話している。

      <2019年4月29日 日本経済新聞朝刊>

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  • 23rd Winners

    2018

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    • 経済部門

      馬軍(マ・ジュン)氏 (中)
      公衆環境研究センター代表・中国

      中国を代表する環境NGOの創設者。インターネットを活用し、各地 方の環境情報や企業の環境問題への取り組みを比較可能にし、地方 当局や企業に改善を促している。

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      馬軍(マ・ジュン)氏 (中)

      企業の環境対策「見える化」

      「米アップルを慌てさせた男」として知られる。

      2006年に非政府組織(NGO)の「公衆環境研究センター(IPE)」を立ち上げた。中国で 活動するグローバル企業が部品や素材の調達先を含めて環境保全にどのくらい熱心に取 り組んでいるかを指数化し、ランキングにして公表している。

      アップルは2010年に、およそ30社のIT(情報技術)企業のうち最下位という不名誉な称 号を与えられた。「最新のランキングでは、そのアップルが1位になったんですよ」。北 京中心部にあるマンションの部屋に構えたIPEのオフィスで、馬軍氏は人なつっこい笑顔 を浮かべながらこう語った。

      はじめはアップルに質問状を送っても「企業秘密」を理由にまともな答えが返ってこな かった。しかし、1年半の時間をかけてじっくり話し合ううちに、同社が部品や素材を調 達している工場がいかに環境を汚染しているかが次第に浮かび上がってきた。

      「いったんそれに気がつくと、彼らは問題の解決に動き始めました」。アップルのよう にIPEの働きかけで環境汚染につながる問題を克服し、ランキングの順位を上げた企業は 約200社にのぼる。日本企業では、パナソニックなどが上位に名を連ねる。

      こうした情報はIPEが独自に開発したアプリを使えば、だれでもスマートフォンやパソコ ンを通じて簡単に手に入れられる。IPEのねらいは明確だ。「情報を公開し、だれでも見 られるようにすれば、大衆が自ら企業や政府に環境の改善を迫れる」

      環境問題にかかわるようになったきっかけは、1990年代の記者時代にある。香港の英字 紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストの北京支局員として、中国全土を飛び回った 。

      「どこに行っても環境破壊がひどいのに驚いた」。特に深刻だと感じたのが河川や湖の 汚染だった。どうしてこんな惨状になったのか。徹底的に調べ上げ、99年に「中国の水 危機」というタイトルの本にまとめた。

      この本は英訳され、中国の水質汚染の実態を初めて告発したリポートとして馬氏の名を 世界に知らしめる。2006年5月には米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選 ばれた。

      IPEを設立したのはその直後だ。最初に手がけたのが「中国水汚染地図」の作成だった。 中国当局が公表している水や空気の汚れ具合に関する情報をかき集め、データベースに した。各地の汚染状況がひと目でわかるこの地図は大きな反響を呼び、中央や地方の政 府に対して環境の改善に取り組むよう圧力をかける効果があった。

      しかし、次第にこれだけでは環境問題の解決にはつながらないと考えるようになる。汚 染の元凶である工場、そしてそこから部品や素材を調達する企業が行動を改めないかぎ り、環境破壊を根っこから食い止めるのは不可能だと気づいたからだ。

      目を付けたのは、当局が環境規則に違反したと指摘した工場の記録だった。最初の1年間 はおよそ2000件の情報しか集められなかったが、地道な作業の積み重ねでいまは97万件 に達した。

      違反を犯した工場と取引のある企業は、冒頭で紹介したランキングの上位に上がれない 。アップルがいくら自分たちは環境にやさしい経営に取り組んでいると主張しても、IPE の追求から逃げられなかった理由がここにある。

      IPEの活動に、当初は企業や地方政府から圧力がかかったのは言うまでもない。脅しに近 いものもあった。だが、人びとや政府、企業の環境汚染に対する危機意識が強まるにつ れ、IPEの活動は世の中に受け入れられるようになったと感じる。

      「われわれと企業や地方政府が一体となって解決策を探る。企業の側も環境問題を克服 しなければ消費者の支持を得られず、存続できないことはわかっているので、われわれ に協力するようになった」

      その活動は着実に根を張り、中国の環境改善に大きく貢献している。中国にきれいな水 と空気を取り戻すまで、馬氏の人生を懸けた取り組みは続く。

      中国駆け回る取材が原点
      子どものころ、父親にラジオを買ってもらったのをきっかけに、英語が好きになった。 ラジオから流れてくる英語を必死に聞いて勉強しているうちに、いつしか英語を使う仕 事に就きたいと思うようになった。

      1993年に香港の英字紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストに入る。当時、同紙が中 国本土に持つ支局は北京だけだった。全国をくまなく回り、あらゆるニュースを追いか ける日々。その過程で、中国の水や空気が危機的といっていいほど汚染されている実態 に気づく。馬氏の取材のテーマは次第に環境問題へと絞られていった。

      成果をまとめた「中国の水危機」を出版したあと、環境問題にもっとじかに関わりたい と考えるようになり、2002年に環境コンサルティング会社に転職する。ここで学んだ企 業の環境政策や関連の法律、サプライチェーン(部品調達網)管理の手法がその後の活 動の基礎となる。

      04年には米エール大学の留学プログラムに合格し、1年間の研究生活を送る。米国では市 民が環境汚染の原因をつくった企業を法廷に訴えて問題を解決する実情を知る。司法制 度が異なる中国ではどうやって企業の行動を変えるべきなのか。米国での思索をへて、 出てきた答えが公衆環境研究センター(IPE)の設立だった。山東省青島出身、49歳。

      スピーチ要旨

      環境問題解決、国民と共に

      工業化や都市化の進展で何億人もが貧困を脱したが、ツケも残した。環境保護よりも国 内総生産(GDP)が優先されたためだ。2006年に非政府組織(NGO)の「公衆環境研究 センター」を設立したのは、複雑な問題の解決には国民の参加が必要だと考えたからだ 。
      大気や河川の汚染状況など環境に関する情報をインターネットやアプリで国民に公開し ている。設立した時点ではデータは2千件以下に限られていたものの、今では大幅に増 えてきた。企業や官僚を監視している。
      07年には他のNGOとともに「グリーン・チョイス・イニシアチブ」を立ち上げた。ブラ ンドや小売業が自身の調達力を活用し、調達先に環境配慮を求めてサプライチェーン( 供給網)の改善につなげるためだ。国際企業が責任を持って関与することが重要だ。安 価なだけの取引先から購入するのではいけない。「ユニクロ」など日本のブランドも積 極的に活用している。
      大気汚染の深刻化で、13年からは微小粒子状物質「PM2・5」などを監視し始めた。リア ルタイムでモニターしている。基準に違反している場所は徐々に改善してきた。地方政 府や企業などの努力を促したといえる。将来的にはより美しい青空を見たい。

      (日本経済新聞2018年6月14日掲載)

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    • 科学技術部門

      グエン・タイン・リエム氏 (左)
      ビンメック幹細胞・遺伝子技術研究所所長・ベトナム

      小児外科医としてベトナムに初めて小児腹腔鏡手術やロボット手術 を採り入れ、直腸肛門奇形などの手術成績向上に貢献。多くの外科 医に技術を教えている。

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      グエン・タイン・リエム氏 (左)

      小児医療、最先端で格闘

      ハノイ中心部にある国立小児病院はベトナムの小児医療の中核施設。2016年に大規模な 拡張工事を実施し、400人の医師と1000台のベッドを持つ東南アジア最大級の小児病院と なり、毎日約4000人の患者が訪れる。医療水準が決して高いとはいえないベトナムで、 小児医療分野が充実していることを象徴するこの病院。立役者はベトナムの「小児医療 の父」といえるグエン・タイン・リエム医師だ。

      リエム氏は1997年にアジアで初めてとみられる子供への腹腔(ふくくう)鏡手術をベト ナムで実施した。体が小さく、臓器の位置が近い子供の腹腔鏡手術は難しく、当時欧州 で始まったばかりだった。94年にパリで技術を学ぶ機会があったリエム氏は高水準だっ たベトナムの子供の死亡率を下げたい一心で、いち早く導入を決めた。当時のベトナム には内視鏡はドイツ企業が貸してくれたサンプル品1つしかなかった。

      最初の手術は北部バクザン省の3歳の幼児だった。神経の問題で一部臓器が不全になる病 気だった。大人ならば2時間ほどで済む手術が6時間かかった。手術は無事成功した。こ の手術をきっかけにベトナムに子供の腹腔鏡手術が広まり、リエム氏は現在では年間300 件近い腹腔鏡手術を実施するようになった。

      手術支援ロボットなど最先端技術もベトナムに導入した。直腸、大腸などの子供向け内 視鏡手術で、8つの新しい技術を開発した。その一部は「リエム・テクニック」として海 外でも知られるようになった。

      リエム氏の努力でベトナムの子供の疾病による死亡率は劇的に低下した。94年にほぼ 100%だった胆道閉鎖は現在5%、93年に61%だった腸閉鎖は同2%になった。

      移植医療での功績も大きい。2004年以降、腎臓、肝臓、骨髄の移植をいずれもベトナム で初めて実施した。移植の技術、臓器提供者とのネットワークなどが蓄積されていない ベトナムで、リエム氏はあえて挑戦した。2008年に劇症肝炎の5歳児に施した生体肝移植 では準備期間が24時間しかなく、医師20人で何とか成功させた。

      現在はビンメック国際病院の幹細胞・遺伝子技術研究所所長を務め、脳性まひ、自閉症 などの移植による治療法を研究している。すでに脳性まひ患者に対する幹細胞移植を30 件実施しており、手助けがあれば歩行可能なほどに回復させた事例もある。リエム氏は 「病に苦しむ子供たちを1人でも多く救うことが私の使命だ」と話す。

      リエム氏が医師を志したきっかけは高校生のときの母親の死だった。肺がんが判明し、 わずか1年ほどで亡くなってしまった。小児医療に進んだきっかけは大学の恩師の存在が あった。卒業した1979年、ベトナム戦争の傷痕も残り、ベトナムの小児医療は「何もな い状態だった」(リエム氏)。食べるものがなく、子供の栄養失調は常態化し、医療以 前ともいえる惨状だった。そんな中、恩師は必死に小児医療を充実させようと努力して いた。

      ハノイの国立小児病院では人材育成、組織づくりまで幅広く自ら指導し、現在の最先端 の施設をつくり上げた。副院長のチャン・ミン・ディエン氏は「リエム氏がいなければ 現在のような国立小児病院はできなかっただろう」と話す。

      リエム氏の薫陶を受けた400人の医師の中には地方から学びに来ている人も多い。苦しむ 子供を助けたいというリエム氏の熱い思いは次の世代が引き継ぎ、ベトナムの医療水準 をさらに引き上げるだろう。

      優れた技術の裏に優しさ
      1952年、北部タインホア省で生まれた。ベトナム戦争中は米軍の「B-52」などの爆撃機 が飛来し、「爆撃の爆音と恐怖はいまでもはっきりと覚えている」(リエム氏)。自身 は従軍しなかったが、兄は南部で戦死した。

      大学で知り合った夫人(60)は同じビンメック国際病院で産婦人科医として働く。2人の 子供も医師で、長男はハノイの国立小児病院、長女はオーストラリアの研究機関で働く 。夫人によると、学生時代のリエム氏は「冬でも半ズボンをはき、ださい髪形をした典 型的な田舎から来た貧乏学生だった」。ハノイの比較的裕福な家庭で育った夫人は時折 、資金援助をしたという。

      ベトナムの医師のステータスは高く、横柄な態度を取る人も中にはいる。リエム氏の物 腰は柔らかく、気配りも人一倍だ。取材が終わり、記者と助手を夕食に誘ってくれた同 氏は用事で来られなかった助手に対して「遠慮しているのではないか?」と何度も来る ように促していた。優れた医療技術、研究の裏には人への優しさがあふれている。66歳 。

      <2018年5月14日 日本経済新聞朝刊>

      スピーチ要旨

      病気に苦しむ子救いたい

      かつては長時間かかる大規模な手術をしてこそ優れた外科医とされていたが、患者に多 大な苦痛と大きな手術痕を残すだけだった。1987年、世界で初めて(おなかに小さな穴 を開けて器具を挿入する)腹腔(ふくくう)鏡手術を行ったのがフランスのムレ医師 。2002年に幸運にも知己を得て、病院に招いて技術を学ぶことができた。
      腹腔鏡手術は成人には広く行われるようになったが、体の小さい子供ではまれだった。 そこで、私は子供にも腹腔鏡手術を施せるようになりたいと研究を続けた。十分な設備 もない状況だったが、技術を改善し、当初はおなかに5カ所の穴を開けなければいけなか ったのが、1カ所にできた。
      多くの論文を書き、ほかの医師たちにも惜しみなく技術を伝えた。今ではベトナムだけ でなく、イタリア、オランダ、インド、フィリピンなど数多くの国に招かれて講義をし たり手術を見せたりしている。
      12年からは幹細胞移植による治療に取り組み始め、この分野で世界最先端の研究者の一 人になった。脳性まひの患者にはさまざまな改善が見られるようになった。まだ初期段 階だが、肝硬変や自閉症にも良い結果を得ている。病気に苦しむ子供たちの人生を変え る。それが私の夢だ。

      (日本経済新聞2018年6月14日掲載)

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    • 文化・社会部門

      ビンデシュワル・パタク氏 (右)
      スラブ・インターナショナル創設者・インド

      下水施設なしで使える簡易バイオトイレの普及に取り組み、150万 基以上を設置して衛生状況を改善。貧困層女性の安全対策などにも つながることから、「トイレの聖人」と呼ばれる。

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      ビンデシュワル・パタク氏 (右)

      トイレ普及で差別撲滅

      赤いシャツを着た男の子に、牛が突然、襲いかかった。倒れた彼を救おうと、幾人もの 人々が駆け寄ってくる。だが「その子は『不可触民』の子だ!」――。人垣の後ろから上 がった非情な一声に、救いの手はみるみる遠のいた。現場に残った25歳の青年は、友人 と2人で男の子を抱きかかえ病院をめざすも、たどり着く前にその子は事切れた。

      インド東部ビハール州の町の市場で起きた1969年冬の出来事だ。そして小さな命を救え なかったこの青年こそ、インドに水洗トイレを普及させたビンデシュワル・パタク氏だ 。縁もゆかりもない「10歳か12歳くらいだった」男の子の最期は、半世紀を経た今も、 パタク氏の脳裏に焼き付いて離れない。

      不可触民は、古代インドからある4階級の身分制度「ヴァルナ」のさらに下層に位置づけ られてきた人々の末裔(まつえい)だ。彼らは自らの階層を「ダリット」と呼ぶが、英 語では「アンタッチャブル」と呼ばれ、触れてはならないと差別されてきた。夜明けと ともに上位階層の家々を回って便所を掃除し、集めたふん尿を町や村の外れに運んでは 廃棄する仕事に従事させられてきたからだ。

      家々の清潔さと人々の健康を守る重要な役回りなのに蔑まれる矛盾。「水洗トイレの普 及が差別根絶の第一歩だ」。こう思い至ったパタク氏が70年に設立したのが「便利トイ レ組織」を意味する非政府組織(NGO)「スラブ・シャウチャラヤ・サンスタン」(現ス ラブ・インターナショナル・ソーシャル・サービス・オーガニゼーション)だ。

      「便利トイレ」と呼ぶ2槽式の水洗トイレは、パタク氏が独学で考案した。1リットルの 水を流すと排せつ物は便器から排水溝を伝って1槽に流れ込む。満杯になるとその槽では 肥料を作り、他方の槽が排せつ物の受け皿となる。肥料は無臭で農業の役にも立つ。

      技術は整ったのに資金が集まらなかった。トイレの設置費用は当時の為替レートで1基33 ドル程度。補助金を申請しに行ったビハール州政府の上級官僚は「誰がそんな物にお金 を出すんだね」と一笑に付す。仕方なく知人から借金したが、今度は設置許可が下りな い。73年7月に最初の2基を同州の町アラーに据え付けるまでの数年は、理解を得ようと 奔走するが糸口すらつかめず「自殺も考えた」(パタク氏)苦難の日々だった。

      心の支えは国父マハトマ・ガンジーだった。69年のガンジー生誕百年祭に向けた準備組 織に加わり、その事務局長に「ガンジーが夢見た不可触民の救済を、君が成し遂げるの だ」と言われたのがそもそものきっかけだった。「まずインドをきれいにし(=不可触 民を救済し)、それから独立したい」と言ったガンジーの言葉の数々を励みとした。

      最初の2基が設置できると評価は一気に高まった。74年にスラブ式トイレは政府に新しい 概念の公衆トイレとして認められ、全国に広まった。世界保健機関(WHO)やユニセフ にも受け入れられた。

      NGOが設置した公衆トイレは西部マハラシュトラ州の2800カ所を筆頭に全国で8500カ所 、家庭用トイレは150万カ所に上る。パタク氏のデザインを用いた政府設置トイレも6千 万カ所と、急速に広がった。

      それでもトイレの普及率は「まだ50-60%」程度だ。野原ややぶで用を足す人々は今も 多く、女性が暴行を受ける事件が後を絶たない。「1村に1人派遣できればトイレ設置を 啓蒙できる」とNGOでは指導員を派遣する。

      パタク氏にはいま、心強い同志がいる。お茶売りから身を立てた庶民派のナレンドラ・ モディ首相(67)だ。「私の出自は小さい。そして小さき人々のため小さい問題に取り 組む信念がある」と言うモディ氏は「ガンジーの生誕150周年の2019年までにすべての家 庭にトイレを設置する」という目標を掲げる。

      目標は遠い。だがパタク氏の地元ビハール州の村でも、モディ氏の地元、西部グジャラ ート州の町でも、不可触民が他の人々と共に食事する風景が見られるようになった。13 億人の国の変化は時間がかかるが、パタク氏が半世紀前に願った差別撲滅というゴール は確実に近づいている。

      「社会の恥」現場へ走り訴え
      1943年にインド東部ビハール州で生まれたビンデシュワル・パタク氏は、4階級の身分制 度「ヴァルナ」では一番上に位置するバラモンの家庭出身だ。幼少期に「アンタッチャ ブル(不可触民)に触れるとどうなるのか」という好奇心を抑えられず、不可触民の女 性に触れたことがある。すると祖母が激怒した。牛のフンと尿、そしてガンジス川の水 を飲み込む罰を与えられたという。

      1968年から69年にかけて不可触民の村に3カ月住んだことがある。その際も差別の伝統が 立ちはだかった。自分の家族、妻の両親、バラモンの地域社会に猛反対され「義父には 『おまえには会えない』と怒鳴られた」と振り返る。だが牛に襲われた男の子の死や、 ふん尿運びを強要され泣き叫ぶ不可触民の花嫁らを目撃するにつれ、パタク氏は家族の 反対に聞く耳を持てなくなったと述懐する。

      最初のトイレ2基を設置したビハール州アラーで「不可触民がまだ、ふん尿運びをさせら れている」という一報を受けた際には、NGO本部のあるニューデリーからすぐに飛んで 行った。

      周囲の制止も聞かず不可触民に合流し、長柄のスコップで家々から排せつ物をかき集め 、一斗缶に流し込んだ。そして彼らと同様、それを頭上に載せて町外れまで運んで捨て ると「この吐き気を催す仕事を彼らに毎日させ続けるのは我々の恥、社会の恥だ」と訴 えた。75歳。

      スピーチ要旨

      バイオトイレ、差別と戦う

      私はソーシャルワーカーとして働いていたとき、身分制度の下層階級に位置づけられる 「不可触民」の生活を改善する仕事を与えられた。排せつ物を清掃する仕事から救い出 し、社会的に統合することは(インド建国の父)マハトマ・ガンジーの夢の一つだった 。
      当時のインドの村では誰もが外で排便をしていた。悪臭に満ち、子どもたちは下痢や脱 水に苦しんでいた。女性は日の出前や日没後にすませる必要があった。蛇にかまれたり 、動物に攻撃されたりするリスクもあった。公共の場所に公衆トイレはなく、インド人 自身も不便を感じていた。
      「便利トイレ」と呼ぶ2層式の水洗トイレを発明した。人間の排せつ物はバクテリアに よってバイオ肥料に変換される。この発明で非人道的な職業から解放され、人権を取り 戻す「不可触民」もいた。
      トイレが学校に設けられ、女子生徒の出席が劇的に増えた。これまで個人住宅に150 万のトイレを設け、全国に9千超の公衆トイレを建設した。モディ政権も衛生状況の改 善を進めている。
      我々のトイレ技術は中国、バングラデシュ、ベトナム、アフガニスタン、ガーナなどで も採用されている。安全で衛生的なトイレがない地域の問題を解決できると信じている 。

      (日本経済新聞2018年6月14日掲載)

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  • 22nd Winners

    2017

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    • 経済部門

      ナンダン・ニレカニ氏 (左)
      固有識別番号庁(UIDAI)初代総裁・インド

      生体認証による世界最大規模の国民ID発行システム「アーダール」 の構築を先導した。発行数は11億超(2017年5月現在)。配給の受 給対象者を増やす一方で不正受給を減らし、貧困層支援を適正化し た。

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      ナンダン・ニレカニ氏 (左)

      11億人にID 貧困改善へ

      インドのムンバイ市内にある携帯電話販売店。来店した50歳代の男性が買いたい機種を 決めると、店員が小型の黒い専用端末を取り出し、男性客が指を置いた。個人を証明す る指紋認証だ。「以前は何日もかかっていたけど、このシステムのおかげで15分ほどで 事務手続きが済むんだ」と店員は話す。

      これは「Aadhaar(アーダール)」と呼ぶ生体認証システムだ。国民は申請の際に顔画 像と指紋、目の虹彩画像を採取して登録し、一人ひとりに固有の12桁のID番号が付与さ れる。システムを運用するインド固有識別番号庁(UIDAI)の初代総裁を務め、開発を 先導したナンダン・ニレカニ氏は「アーダールは政府の効率性を高め、人々の生活を向 上させる」と指摘する。

      もっとも、事務手続きの迅速化はアーダール導入効果のひとつの側面でしかない。イン ド政府が福祉に力を入れるなか、個人を証明する高精度の仕組みがないため、偽装証明 による補助金などの不正受給が横行。一方で、出生届などの登録制度が不十分で、貧し くても低価格での食料配給や補助金を受けられない人が多かった。本当に必要な人に補 助金などを届けるとともに、不正を防ぎ、政府の経費を削減するのが同システムの狙い だった。

      開発プロジェクトは2006年に始動した。09年に内閣が了承すると、シン首相(当時) は、インドのIT(情報技術)サービス大手インフォシスの共同会長だったニレカニ氏に UIDAI総裁を打診。もともとニレカニ氏は著書でIDシステムの必要性に言及していたこ ともあり、白羽の矢がたった。

      ニレカニ氏はインフォシス共同会長を辞任。責任も重く、本人にとってリスクのある決 断だったが、受諾したのは「新たな挑戦をしてみたかった」からだ。開発にはインド人 の英知を結集。偽装の防止策や、指紋や目の虹彩画像など個人情報を流出させない高度 なセキュリティーの確保には高い技術力が求められる。「米国など海外にいるインド人 にも協力を得た」とインフォシスでの経験を生かした。

      「なぜ、こんな重要なプロジェクトを民間企業出身者に任せるのか」。官僚からは反発 もあった。UIDAI総裁は閣僚級ポストのため、やっかみもあっただろう。かつてアーダ ールとは別のIDプロジェクトが存在していたことも背景にある。だがニレカニ氏は政府 内の「雑音」に耳を貸さず、時に丁寧に説明をしながら、強い意志を持ってプロジェク トを進めた。ニレカニ氏は「政府内で起業したようなものさ」と振り返る。

      ニレカニ氏にとって追い風となったのが、起業の経験とノウハウだった。1981年にイン フォシスを共同創業し、今や売上高が1兆円を超えるインドを代表するIT企業に育てあ げた。人を動かし、新しい事業を立ち上げるのはお手のものだ。

      第1号のアーダール番号は2010年に発行された。いまや全人口の9割前後の11億人超が 登録するとされる。米著名経済学者で世界銀行のチーフ・エコノミストのポール・ロー マー氏は「アーダールは私の知る限りで最も洗練されたシステムだ」と絶賛し、世界で も注目を集める。「開発には約10億ドルかかったが、不正受給などが減ったおかげで政 府は累計で70億ドル近くも経費を削減できた」と、ニレカニ氏は胸を張る。

      同システムは今なお進化を続ける。ID番号が銀行口座にひもづけられ、政府はIDだけで 補助金や年金を国民の口座に直接振り込めるようになった。4月には現金もクレジット カードもスマートフォン(スマホ)も要らない「アーダールペイ」が始まった。消費者 、販売者ともにIDと銀行口座をひもづけていれば、消費者は番号と指紋認証だけで支払 いができる。店舗側はネットに接続したスマホと指紋認証端末があればアーダールペイ を導入できる。

      ヒンディー語で「基礎」を意味するアーダール。貧困改善と政府のムダ削減を目的に始 まったが、「活用はまだまだ広がる」。モディ政権が「デジタル・インディア」計画を 掲げて様々な分野のデジタル化を進めるなか、まさに社会の基礎として動き始めている 。

      「良い教育を」IT活用した教材提供
      1955年、インド南部のカルナタカ州バンガロールで生まれた。好奇心旺盛で読書が好き な男の子だった。12歳の時、繊維産業で働いていた父親が転職し、ニレカニ氏は1人で 同じ州の小さな町に住むおばさんの家で暮らすことになった。「両親と離れて寂しかっ たが独立心が芽生え、自己管理を学んだ」と振り返る。

      18歳で世界でも評価の高いインド工科大学(IIT)ボンベイ校(ムンバイ)に入学。小さ な町から大都市のムンバイへ再び引っ越した。小さい頃から親元を離れて複数の地域で 生活し、一流大学で多様な人と交流した経験は「起業する自信を与えてくれた」。卒業 後は就職し、ソフトウエアエンジニアとして約3年間働いたが、1981年にナラヤナ・ム ルティー氏らとともにインフォシスを共同創業した。

      2009-14年までインド固有識別番号庁(UIDAI)の総裁を務めた後、バンガロールに戻 り、EkStep財団を妻と共同創業した。教育活動に熱心な妻から「インドでは2億人の子 供にもっと良い教育が必要」と説かれ、パソコンやスマートフォンなどITを活用した教 材を提供。現在、数十万人が利用する。

      休日には世界の料理を食べ歩く。中華や日本食、先日はペルー料理店にも行った。「で も最近は孫が生まれて忙しいよ」。顔をほころばせ、おじいさんの表情を見せた。61歳 。

      <2017年5月1日 日本経済新聞社 朝刊>

      スピーチ要旨

      固有識別番号、改革の起点に

      10億人以上の国民全員に番号を割り当てる。こんな私の構想を形にする機会をもらい 、2009年にインド固有識別番号庁に入庁した。野心的な目標の達成には数十万人が関わ った。インドを変えたいと情熱を注いだ仲間に賞をささげたい。
      生体認証システム「Aadhaar(アーダール)」の開発前には、出生証明書がない国民が 何百万人に上り、社会保障の不正受給も多かった。堅固な識別制度の構築に課題は山積 していた。
      10億人以上の指紋と目の虹彩を採取して重複がないかを確かめるには、1日に100万人 以上の登録が必要となる。個人情報の保護も不可欠だ。この史上初の試みにNECをはじ め、多くの企業が尽力してくれた。
      今では11億人以上がアーダールに登録している。電子決済など技術革新の基盤として活 用され、様々な改革の起点となっている。
      いま私は財団を立ち上げ、社会的なプラットフォームとして教育の機会を広めようと取 り組んでいる。技術を賢く使うことは、新興国の課題に持続可能な解決策をもたらす。 今回の受賞で一層その思いを強めた。

      (日本経済新聞6月5日掲載)

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    • 科学技術部門

      頼明詔(ライ・メイショウ)氏 (中)
      中央研究院分子生物研究所 名誉フェロー・台湾

      リボ核酸(RNA)ウイルスの研究で有名なウイルス学者。2003年に 流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)の研究では、鍵となる発見 のほとんどを手がけ、早期終息に貢献した。

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      頼明詔(ライ・メイショウ)氏 (中)

      感染症との闘い 今も最前線に

      直径300ナノ(ナノは10億分の1)メートル以下の楕円形のウイルスの表面に、放射状 の突起が広がる。独特の形状が太陽のコロナを連想させることから「コロナウイルス」 と名付けられた病原体は、2003年にアジアをパニックに陥れた重症急性呼吸器症候群 (SARS)、15年の中東呼吸器症候群(MERS=マーズ)を引き起こした。台湾の中央研 究院分子生物研究所名誉フェロー、頼明詔氏はこのウイルスの研究の第一人者。SARS 終息を早めた功労者だ。

      1968年に台湾大学医学部を卒業。分子生物学を研究するため米カリフォルニア大学バー クレー校に留学したのは「遺伝子を解き明かし生命の謎に迫りたい」との思いからだっ た。ウイルスはゲノム(全遺伝情報)のサイズが小さく、「小さいものを深く研究する ことが全体を解き明かすカギになる」と考えた。

      当時は小児まひのワクチンの開発などでウイルス研究が成果を上げており、「いつか研 究を社会に役立てたい」との思いもあった。73年に博士号を取得すると米国の南カリフ ォルニア大学の教員となり、83年には教授に昇任。C型肝炎ウイルスが肝臓がんを引き 起こすメカニズムを解明し、治療法の開発に貢献した。

      だが主要な研究対象に選んだコロナウイルスは苦戦した。今でこそ猛威を振るう感染症 の「主犯」として有名だが、かつては「人間には普通の風邪しか引き起こさず、誰も見 向きもしないマイナーなウイルスだった」。同級生や同僚が研究で世界的な注目を浴び たり、大金を稼ぐのを目にしたりして「焦りを感じ、一緒に米国に来てくれた妻に申し 訳なく思うこともあった」。それでも研究を続けたのはある考えが頭の片隅にひっかか っていたからだ。

      コロナウイルスはRNAというカテゴリーのウイルスのなかでゲノムが特別大きく、複雑 だ。「性質が変化する余地が大きく、いつか重大な病原体に転じるかもしれない」。研 究開始から約30年を経て、予想は現実となる。

      2003年3月、学会出席のため滞在していたオーストラリアのホテルの電話が鳴った 。「SARSはコロナウイルスが原因と判明しました。一体どんなウイルスなのですか 」。頼氏の滞在先を探し出した米メディアの記者は、開口一番まくし立てた。驚きとと もに「ついに社会の役に立つ時がきた」と使命感がわき上がった。

      SARSは02年11月に中国で原因不明の肺炎が発生したのを皮切りに、アジアを中心に感 染が拡大。コロナウイルスは一気に有名になった。頼氏は厳戒態勢にあった台湾に戻り 、中央研究院の副院長に就任。構造や性質など蓄積した研究成果を内外に伝えた。

      03年7月、世界的な終息宣言が出るまでに8千人以上が感染、800人近くが死亡した。「 頼氏の科学的根拠に基づく進言があったからこそ、まん延を迅速に食い止められた」。 当時衛生署長(衛生相)として対策に当たった陳建仁・副総統はこう評価する。

      「エイズウイルス(HIV)を30年以上も解決できないとは思いもしなかったし、インフ ルエンザは毎年異なる型が出現する」。ウイルスとの闘いに終わりは見えず、だからこ そ研究同様に、後進の育成に力を注いできた。ただ「地道な研究の道を志す若者が減り 、ウイルス研究が減っている」との懸念を深める。

      07-11年には台南の名門、成功大学の学長を務めた。その後、中央研究院に復帰してか らも研究室に閉じこもらず、当局の委員会やプロジェクトチームなどに積極的に参加し 若手を鍛える。昨年には自ら率いたデング熱の研究チームの研究成果をまとめ、「デン グ熱に関する台湾の経験」という書籍を刊行した。専門的な内容をあえて一般向けの書 籍にまとめた。「ウイルス研究がいかに社会に貢献できるか伝えたかった」からだ。

      「ひとつの科学的発見は、何百人もの研究者の蓄積のたまものだ」とし、自らの業績を 誇らない。感染症との闘いの最前線に立ち、慢心などと無縁の道で深めた思いだ。「ウ イルスは学者よりも賢い。だからこそ多くの研究者が協力して研究しなければならない んだ」

      伯父に感銘 揺るがぬ夢
      1942年、古い街並みが残り「台湾の京都」と称される古都、台南市に生まれた。米屋を 営む教育熱心な家庭で、兄弟4人全員が最難関の台湾大学に進んだ。幼少期から大好き な野球の試合も必ず日々の勉強を終わらせてから観戦に出かけ、「一言で言えば優等生 だった」と自然体で語る。中学から大学までいずれも首席で卒業した。

      研究者の夢を見定め、その道を迷いなく歩んだ。地元の成功大学で工学系の教授を務め ていた伯父の存在が「道しるべ」だった。設備は古く、研究環境では欧米に劣っていた が、伯父はそれにもめげず、多くの論文を執筆し評価されたという。研究の合間を縫っ て台南の自宅に遊びに来ては研究内容などを熱心に話してくれた。「研究者とはこんな に楽しく、素晴らしい職業なんだ」。米国での長い下積み時代も、その思いは揺らがな かった。

      2人の娘は自発的に医学研究を志し、今は米国の大学に奉職する。「別に同じ道に進ま なくてもよかったのに」とぼやきつつも、「すぐに追い越されちゃうな」とどこか満足 げだ。趣味はバイオリン。台湾大学医学部の後輩だった妻はピアノが得意で、大学の演 奏会など機会があれば夫婦そろって演奏を披露する。「帰宅後、1時間程度妻と一緒に 演奏する」と話すと、穏やかな表情が一段と緩んだ。74歳。

      <2017年5月1日 日本経済新聞社 朝刊>

      スピーチ要旨

      感染症対策、国境越えて協力を

      ウイルスや細菌によって起こる感染症は人類に大きな災いをもたらしてきた。医学の進 歩にもかかわらず、ウイルスによる感染症はコントロールできず、根絶できていない。 だからこそウイルスを理解することは重要で、私はよく「ウイルスはウイルス学者より も賢い」と話している。 
      ウイルス研究にひかれたのは台湾の医学生の時だ。最初はその美しさに夢中になった。 これまでに肝炎を引き起こすウイルスに加え、コロナウイルスも研究した。
      コロナウイルスは当初、深刻な疾病を起こすと知られておらず、学者の多くは無視して いた。だが02年から03年の重症急性呼吸器症候群(SARS)を引き起こし、一夜にして 有名なウイルスになった。我々の研究がSARSの理解や戦略策定、短期終息につながっ たのは喜びだ。
      こうした経験からも基礎研究は重要だ。感染症のコントロールはパンデミック(世界的 大流行)後では遅く、平穏時に備える必要がある。ウイルスは国境を持たず、地域間の 協力が不可欠だ。科学的知識を持ち寄り、協力して問題解決に取り組むことが重要とな る。

      (日本経済新聞6月5日掲載)

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    • 文化・社会部門

      エディ財団(団体表彰) (右=代表 フェイサル・エディ氏)
      パキスタン

      宗教、階級、人種などで差別しない徹底した人道主義に基づき、24 時間体制の救急搬送、自然災害への緊急対応、貧困層や難民への支 援など幅広い社会福祉サービスを提供するNGO。(右)

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      エディ財団(団体表彰) (右=代表 フェイサル・エディ氏)

      救急車かけつけ 宗教問わず

      「慈悲 1928-2016」。フェイサル・エディ氏(41)が両手の指先でそっとつまんだ50 パキスタンルピー(約52円)硬貨には、そんな文言と、亡父アブドゥル・サッタル・エ ディ氏の肖像が刻まれていた。狭い路地を行き交う車の音、荷車を押す人々の声。最大 都市カラチの財団本部には街のにぎわいが絶えず届くが、その刻印は対照的な静けさを 醸し出していた。

      記念貨幣の肖像になったのは、元首相らに続き5人目だ。政府は昨年7月に没したアブド ゥル・サッタル氏を偉人に列し、3月末に発行した。6平方メートルの無料診療所を開い た51年を創設年とするエディ財団は今や、救急サービスを運営する世界最大の非政府組 織(NGO)となり、パキスタンにとって必要不可欠な組織となった。

      「場所はどこですか。どんな容体ですか」。カラチの「エディ救急車コントロールルー ム」の電話は鳴りやまない。着信は24時間で3500回、12時間1シフトで電話を受け取る 10人に休む暇はない。救急番号「115」と財団名「EDHI」が朱書きされた救急車の出入 りも激しい。

      57年に英国製救急車一台で始めた救急サービスは今、パキスタン全土で1800台を擁す る。全国に335カ所ある「エディ・ウェルフェア・センター」は救急サービスに加え、 行方不明者の捜索も担う。20カ所の「エディ・ホーム」には孤児ら9千人が住み、遺族 ら引き取り手を待つ遺体の安置所も5カ所ある。

      独立前のインド西部グジャラート州で生まれたアブドゥル・サッタル氏は、幼少期に社 会奉仕の精神をたたき込まれた。登校前、母はいつも2枚のコインを手渡す。「1枚は自 分のため、もう1枚は貧しい人のため」。その1枚を残し帰宅すると「自分の目の貪欲を 見なさい」「貧しい人からもう搾取し始めたのか」と母に叱られた。同氏は生前、「助 けが必要な人と怠け者を見極める直感が鍛え上げられた」と述懐した。

      印パが分離独立した47年、アブドゥル・サッタル氏はカラチへ移住した。新たな国、新 たな町が生まれる混沌の中、慈善団体も多く誕生した。だが、出身地や宗派を同じくす る身内社会「コミュニティー」の内側だけで助け合う排他的な団体ばかり。異を唱える 同氏は、コミュニティーや宗教・宗派で分け隔てしない慈善団体を創設した。

      57-58年のインフルエンザの大流行が、エディ財団の社会的認知度を高めた。カラチに 救急車はまだ5台しかなく、アブドゥル・サッタル氏は買ったばかりの1台のハンドルを 握り続けた。次々に舞い込む救急要請を受けると急行し、車内で応急措置をしつつ病院 に向かう。助かる場合も助からない場合もある。それでも休む間もなく、無償で人と遺 体を運び続けた。

      亡父の後を継いだフェイサル氏は94年12月の出来事が忘れられない。軍部が父を大統領 候補に祭り上げ、クーデターを企てた。協力を拒み英国に逃亡した父は一転、「敵国イ ンドのスパイ」と吹聴された。17歳だったフェイサル氏は1カ月、留守を預かったが「 私たちは全員、逮捕されると毎日おびえていた」と振り返る。

      現在取り組んでいるのは、カラチ市内に120床を備えた病院を建設し稼働すること。応 急措置を担う看護師らを養成し、効果的な救急サービスを提供できる人材を増やしてい くのが狙いだ。

      国内各地の求めに応じ、活動範囲を広げたエディ財団だが、その活動原資は半世紀前と 変わらず寄付金頼みだ。年15億パキスタンルピーの予算のうち、4-5割は基金の利息収 入で賄い、残りはパキスタン人個人や企業の寄付金だけ。パキスタン政府や海外慈善団 体からの資金拠出の申し出は断り続けてきた。政治的な色がつくことを恐れるためだ。 寄付金に頼るもう一つの理由は、財団の存在意義を測るバロメーターにしたいからだ 。「寄付金が減れば、社会における我々の必要性が減った証し。活動も徐々に縮小して いく」。フェイサル氏はこう断言する。

      同氏にとって財団の救急・福祉サービスは「欧州のような福祉国家が整えば本来、政府 が担う物」。財団の活動を政府が担うようになり、財団が必要なくなる日は「私の生き ているうちに訪れないと思う」と話すが、その日を心待ちにしている。

      結婚式の支援も無料で提供
      創始者のフルネームを用いた正式名称「アブドゥル・サッタル・エディ財団」は地元で はよく知られた存在だ。「とても有名な財団よ。救急車に孤児院、老人ホームだけでな く、貧しいカップルの結婚式まで支援するんだから」。カラチの携帯電話ショップの女 性店員は熱心にこう説明してくれた。

      あらゆるサービスを原則無料で提供する。救急サービスを受けた人がお金を払うと言え ば「そのお金は募金してください」と、サービス対価として資金を受け取らない。一方 、売名行為が目的だと見なせば、寄付すらも断る。純粋な社会奉仕を貫くためだ。 財団では約3000人のスタッフが働く。カラチ地区の責任者ビラル氏(45)によれば月 給は1万5000-2万5000パキスタンルピー程度。公務員より安いが、「ここの人道支援 を気に入り、親の反対を無視して大学に進学せず、1988年に17歳で入団した」(ビラ ル氏)。

      パキスタンだけでなく、インドでも、先祖の出身地や宗教・宗派を同じくする身内社会 「コミュニティー」に根ざした慈善団体は多いが、病院が五つ星ホテルのような豪華な 造りだったりして違和感を覚えることも少なくない。創始者アブドゥル・サッタル・エ ディ氏が異を唱えた矛盾は今も南アジア各地に残るが、代表のフェイサル・エディ氏は 、慈善団体の有るべき姿を保つ精神を受け継いでいる。

      <2017年5月1日 日本経済新聞社 朝刊>

      スピーチ要旨

      貧困や教育、政治の関心必要

      宗教、人種、信条、階級にかかわらず人類を助ける。父のアブドゥル・サッタル・エデ ィが創設したエディ財団の目的だ。父は小さな町で診療所を開き、すぐに救急や産院、 孤児の養子縁組など様々な支援へ手を広げた。常に人間の苦しみを和らげ、助けを求め る声に応えようとしていた。
      財団では現在、パキスタンで1800台の救急車を擁し、20カ所のシェルターで孤児ら9千 人が暮らす。国外でもバングラデシュの洪水などで被災者の支援にあたった。活動資金 は主に個人や企業などローカルな支援で賄っている。
      多くの途上国では貧困や治安の悪化、教育や保健に対して政治リーダーの関心が低い。 各国が軍拡競争に陥り、過激派が地域の不安を高めている。
      争いをやめ、世界全体の調和や福祉に向けて協調する時がきている。日本は大量破壊兵 器の被害を受け、平和を尊重する国だ。世界のために尽くしてほしい。

      (日本経済新聞6月5日掲載)

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  • 21st Winners

    2016

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    • 経済部門

      アクシャヤ・パトラ財団(団体表彰) (中=代表 マドゥ・パンディット・ダサ氏)
      インド

      インド国内の小中学校計1万1千校に給食を提供している NGO。150万人に昼食を無料で提供し、インドの今後の経済発展を 支える子どもたちの通学意欲を高めた。

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      アクシャヤ・パトラ財団(団体表彰) (中=代表 マドゥ・パンディット・ダサ氏)

      150万人に給食 学び支える

      三つ編みの少女アクシータさん(14)は朝6時に起きると10平方メートルの床を掃除する。そ して台所の一角へ。「前の晩のサンバル(カレー)が残ってないかな」。だが建設作業員の父 と縫製工場で働く母の稼ぎを合わせても月9千ルピー(約1万5千円)と少なく、食べ物のない 朝は多い。

      「学校の給食をすぐに思い出すの。昼には食べられるって」

      アクシータさんが通うインド南部バンガロールの学校に給食を提供しているのが、非政府組織 (NGO)のアクシャヤ・パトラ財団だ。アクシータさんは3月のその日も、白いご飯の上に山盛 りの野菜カレーとヨーグルトを載せてもらっていた。財団の給食を食べる子供はインドに150 万人いる。全29州のうち10州の1万1千校が対象で、政府を除けば「世界最大の学校給食事業者 」と呼ばれる。

      ■   ■

      「彼に学校給食の提供を勧められたのがきっかけだ」。財団のマドゥ・パンディット・ダサ会 長は2000年の出来事をこう振り返る。「彼」とは、IT(情報技術)大手インフォシスの元最高 財務責任者(CFO)、モハンダス・パイ氏だ。財団と同じバンガロールに本社を構える。

      ダサ会長はインドでも有名なヒンズー寺院の住職。寺の訪問者に無償で食事を提供するのを知 っていたパイ氏は、学校給食による社会奉仕を勧めた。当時のインドでは給食が義務化されて おらず、弁当のない子供は空腹のまま勉強し、食いぶちを稼ぐため小学校を中退する子も多か った。

      ダサ会長は2000年7月、寺の調理場で作った1500食をバンガロール市内の5校に提供し始めた。 だが1カ月とたたないうちに「寺のご飯」の噂は広がり「私の学校でも」と求める手紙が届き始 める。調べると「自宅にまともな食事のない子供が市内だけで100万人いるとわかり、衝撃を 受けた」。各校の要請に応じ配膳規模を広げた。

      セントラルキッチンは現在、インドの10州に24カ所あるが、バンガロールの1カ所目はダサ会 長自身が設計にかかわった。蒸気調理器や煮沸器、コンベヤーなど「最新式の技術を導入して 3万食の提供が可能になった」。

      資金面の支えとなったのが寄付金だ。当初は寺への寄進を原資にしたが、01年にアクシャヤ・ パトラ財団を設立して寄付金も募り始めた。

      「寄付金が集まる最大の理由は透明性だ」とダサ会長はいう。監査は会計事務所KPMGに委託 し、100ページ超の年次報告書を国際会計基準(IGRS)で作成する。理事に就いたパイ氏ら経 営に明るい外部人材も、透明性や品質を高める。インド政府が14年4月から、大企業に利益の 2%を「企業の社会的責任(CSR)」活動に拠出するよう義務付けたのも追い風で、寄付金は増 える一方だ。

      財団の最大の貢献は、インド政府が04年に公立校での給食を義務化する陰の立役者になったこ と。「政治家も一般市民もみな我々の活動を知っていた。このため、給食の義務化を勝ち取る べく協力しなければならないという思いを持つことができた」と振り返る。

      国連統計によると、インドの小学校の就学率は07年以降、99%を記録しており、02年の86%か ら大きく伸びた。「学校給食が教育に果たす役割は大きい」。ダサ会長は、腹をすかせた子供 たちが、給食をきっかけにして学校に通うようになってきたことに目を細める。

      財団の給食は、一般の公立校より1品多い3品。政府補助金に寄付の資金を上乗せし、1食当た り9ルピー(15円)の原価を確保できるからだ。今も給食提供の依頼が絶えない背景には「ほ とんどの生徒にとって給食が一日で唯一の食事」(アクシータさんの学校の校長)という現実 がある。

      ■   ■

      「2020年に500万人の子供に給食を届ける」のがダサ会長の目標だ。新たなセントラルキッチ ンも8カ所で建設中だ。ただ500万人といっても「貧しい子らが通う全国の公立校の生徒1億2千 万人の一握り。需要は無限にある」。「無限の鍋」を意味するアクシャヤ・パトラの果てしな い挑戦は続く。

      「無限の鍋」に宗教の垣根なく
      アクシャヤ・パトラ財団はバンガロール市内のヒンズー寺院「イスコン・テンプル」の敷地内 にある。アクシャヤはヒンディー語で「無限」、パトラはサンスクリット語で「鍋」を意味す る。2015年3月期の寄付金収入は14億7034万ルピー(約24億円)で、2年間で倍増した。従業 員数も6256人に達し、一般的な非政府組織(NGO)のイメージとはかけ離れている。

      マドゥ・パンディット・ダサ会長は、そのヒンズー寺院の住職。学生時代にヒンズー教の神の 一つ「クリシュナ」の布教活動に触れ、宗教の道に進んだ。

      ただ、自身はインド最高学府の一つ、インド工科大学(IIT)ムンバイ校の出身だ。宗教家とは いえ、著名経営者らを輩出する大学で学んだことで、経営者らと話す際に使える「ビジネスや 経営の透明性といった共通言語」を手に入れた。インフォシスの元CFO、モハンダス・パイ氏 だけでなく、米モトローラで品質管理を担った経歴を持つ人物らが財団に入り、トヨタ自動車 のカイゼン方式を導入する。

      「財団は宗教とは無関係」が信条。給食はイスラム教徒の学校にも提供する。5000人の子供ら が住むバンガロール市内のイスラム教徒地区で給食を拒まれたこともあったが、地区の宗教指 導者らを自らの寺に招き、プレゼンテーションを交えながら懇々と説得し、了承を得たことも ある。59歳。 

      <2016年5月8日 日本経済新聞社 朝刊>

      スピーチ要旨

      子供の生活の質、未来を左右

      最初に公立学校で給食を無償で配った日のことを私は今でもよく覚えている。子供たちは興奮 して喜んだが、その日限りの出来事だと思ったようだ。だが、我々は翌日も同じ学校に行った 。それから16年にわたり、インドで給食の提供を続けてきた。  
      1日1500食から始まったささやかな活動も、今では毎日150万人に給食を提供するようになった 。おいしい給食は子供たちの通学意欲を高める。おなかをすかせていては、満足に学ぶことは できないし、飢えが教育の障害になってはならない。  
      国連食糧農業機関(FAO)によると、世界の栄養不良人口の4分の1がインドにいる。飢餓や貧 困は神につくられたものではなく、人間が解決できる問題だ。貧富の格差は今後も続くだろう が、縮小のためにできることはある。  
      我々の活動によってインドの公立学校では給食が義務化されるなど、問題の解決を促してきた 。給食を支えに学業を修め、良い仕事に就いた子供たちを目の当たりにしてきた。全ての国の 運命は未来を担う子供たちの生活の質にかかっていると強く信じている。我々は給食の提供数 を2020年までに500万人に広げたい。

      (日本経済新聞5月30日掲載)

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    • 科学技術部門

      江雷(コウ・ライ)氏 (右)
      中国科学院理化技術研究所教授

      生物模倣研究の世界的な第一人者。ハスの葉、クモの巣、魚のウロ コなどから「超はっ水」の機能を解明。研究成果から生まれた材料 は700隻以上の船舶に使用されるなど、世界の産業に大きく貢献 している。

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      江雷(コウ・ライ)氏 (右)

      夢の材料 解は自然の中に

      ハイテクが人間の専売特許と思ったら大間違いだ。極彩色に満ちたチョウの羽、壁をはい上が るヤモリ、水中を猛スピードで泳ぐサメ……。その発見も雨上がりによく見る水たまりが原点 だった。

      小さく広がる波紋の中心、水の上をすいすいとアメンボが滑っていく。なぜ浮いていられるの か、なぜ自在に動き回れるのか。突き詰めると、面白いことが分かってきた。

      ■   ■

      アメンボの脚の先、拡大すると筆のように無数の毛が密生している。さらにその一本一本の毛 先をよく見ると、表面は複数の細い帯が絡み合うらせん状になっていた。帯1本の幅は約200ナ ノ(ナノは10億分の1)メートルだ。帯と帯の間には微細な溝があり、そこに気泡が入り込む ことで、水を強くはじく「超はっ水」という現象が起こっていたのだ。

      アメンボはあの細い脚1本で、自分の体の15倍に相当する重量を水に浮かべられる。極小のら せんが生む強い浮力が水の抵抗をなくし、人間の大きさにすると時速400キロという高速の水 上移動を可能にしていた。電子顕微鏡でしか見られない分子レベルまで追究していって、初め て分かった不思議な構造だった。

      「道法自然。こんなに面白いことはないよ」。江氏の口癖だ。自然を模範とし、これを学ぶべ きである。古代中国の思想家、老子の言葉を材料化学の世界で実践する。根幹にあるのは、自 然に対する尽きない興味と畏敬の念だ。

      朝のクモの巣に大量の水滴が張ってあるのはなぜか。砂漠のサボテンは雨なしでどうやって生 きていられるのか。食虫植物のウツボカズラはどのように虫を捕食しているのか――。これまで その成果は何度も権威ある英科学誌「ネイチャー」の表紙を飾り、世界を驚かせてきた。

      真骨頂はそうした研究結果を、実際に機能材料として産業分野で応用することにある。再現さ れた生物の特性はハイテクそのものだ。

      例えばアメンボなどから分析した「超はっ水」の仕組みだ。カーボンナノチューブなどを使っ て人工的に100ナノメートル単位の極小でこぼこを再現した。フィルムや塗装剤の形で衣類や 文化財を覆えば、水や汚れから保護できる。魚のウロコからは水中でも油や汚れをはじく表面 構造を解析、今では世界の海を航行する700隻以上の船舶で船体保護などに使われている。

      海外に住む優秀な研究者100人を呼び戻す政府の「百人計画」を受け、30代で権威ある中国科 学院に。今は60人の若手研究者を指導する。だがここに至るまで順風だったわけではない。留 学組への期待と圧力、大抜てきへのやっかみ……。自身もなかなか成果を出せず、焦っていた 。

      転機はドイツで開かれた学会に出席した時だ。「池に浮かぶハスがなぜいつも美しく咲いてい るのか。原理が解明できれば、面白いんだけど」。同僚らの冗談話を聞いて、頭の中を光が走 った。

      ハスの葉には、水が触れても表面は決してぬれず、自然に水滴となって汚れを絡め取りながら 転がり落ちる不思議な特徴がある。江氏はハスの葉を覆う無数の極小ぶつぶつを発見し、これ が「超はっ水」を生み出していることを突き止めた。だがなかなか人工的に構造を再現できず 、壁にぶち当たる。

      「そんな研究はいらない」「できるわけがない」。中国国内でも懐疑的な見方が広がり、根拠 のないゴシップに心を痛めることもあった。それでも1日14-16時間、土日なく研究室にこも って3年間。「自分でも分かるまで、とにかくやめられなかった」。愚直に実証試験を繰り返し た。

      ■   ■

      そして2001年。専門科学誌に発表したのは、防水や防汚など新材料として様々な応用が期待で きるハスの驚くべきハイテク構造だった。画期的な研究成果で、江氏が世界に飛び出した瞬間 だった。

      国の材料化学の第一人者として国内外企業との産学連携に力を入れる。中でも期待するのが素 材・材料大国である日本企業との協力だ。理由を尋ねると、こう返ってきた。「日本は文化的 にも歴史的にも、中国を最も理解しているでしょ。こんなに近いんだから、できることも無数 にあるよ」

      「一生一事」遊びの中にも発見
      1965年、中国吉林省長春市生まれ。読書が好きで、小さい頃から歴史書や小説を毎日欠かさず 読んでいた。空想癖があるといい、少年の時は世界を股にかける国際スパイが夢だった。その 後は化学者だった父親の影響もあり、一生の仕事となる科学の世界に入った。

      日本との関わりは深い。吉林大学修士課程の時、国の特別研究賞を取り、92年に交換留学で日 本に渡った。師事したのが東京大学の藤嶋昭教授(現・東京理科大学学長)だ。「一生一事 」。人生の間に1つの真実を突き詰めれば、ほかの事は分からなくてもいい。1つ事にこだわれ 。正月に酒を酌み交わした時の教えを今も実践する。

      2009年には中国科学院院士に。毎日深夜まで働くが、土日はきっちり休む。長女(14)と長男 (11)と遊ぶのが何よりの楽しみだ。バーベキューや釣りをしているさなかに、よく新たな研 究の糸口をひらめくという。「遊びの中にいつも発見があるよ」。51歳。

      <2016年5月8日 日本経済新聞社 朝刊>

      スピーチ要旨

      自然に学ぶ研究、産業に貢献

      私は研究活動をしていた日本から中国に戻って以来、17年間、水を強くはじく「超はっ水」の 研究を続けてきた。帰国する際、指導教官だった東大の藤嶋昭先生(現東京理科大学長)と話 して、一生で1つのことを究めればいいのだと確信したからだ。  
      研究活動では、自然に学ぶということを重視している。事実から新しい原理を探すには、発見 、発明、創造という3つの段階を踏むことが必要だと考えている。  
      ハスの葉は水がかかっても表面がぬれず、水滴を作って汚れを取りながら転がり落ちる特徴が ある。葉の表面を微細なレベルで調べることで、その構造を解明した。アメンボが水面を移動 できる仕組みも発見した。  
      解明した「超はっ水」の構造を応用した布からネクタイが作られるなど、研究成果が産業向け に使われた。魚の表面構造を解き明かした成果が、船の表面加工や印刷にも活用されている。

      関心があるのがサボテンの針の構造だ。空気中の水分を回収する働きをする。これを人工的に 作れれば、乾燥地帯でも空気中の水分を集め農業に生かせると考えている。

      (日本経済新聞5月30日掲載)

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    • 文化・社会部門

      ドグミド・ソソルバラム氏 (左)
      俳優・歌手・舞台演出家・モンゴル

      ・モンゴルで数多くの映画や舞台に出演、世界でも高い評価を得る 。同国初の民間劇場を創設するなど、文化・芸術を通じた民主主義 ・自由の啓発活動に取り組んでいる。

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      ドグミド・ソソルバラム氏 (左)

      心を洗う歌声、自由を啓蒙

      遊牧民の家庭に生まれた幼少期に、草原で馬に跨がり、月を眺めてひとり歌っていたのがモン ゴルを代表する芸術家、ドグミド・ソソルバラム氏の原点だ。祖母のモンゴル長唄を聞いて育 ち、歌に興味はあったが、人前で披露することは避けていた。

      15歳のある日、思い立ってクラスメートの前で歌うと「みんな静まり返ってしまった」。よく 通る重厚な歌声に驚くあまり、拍手を忘れたのだという。翌年、学校を代表してモンゴル伝統 芸能の全国コンクールに出ると歌、踊り、楽器など5つの部門で優勝。大学では演劇を専攻し、 才能を開花させるはずだった。

      ■   ■

      立ちはだかったのが社会主義体制だ。大学を卒業した1982年当時、モンゴルはソ連の衛星国だ った。国立劇場に俳優として就職したものの「ソ連の社会主義をたたえる作品ばかり演じさせ られ、疲れた」。表現の自由を求め、民主化に関心を向けた。

      「心が洗われるような歌声だった」。清水武則駐モンゴル大使は2等書記官だった89年、首都 ウランバートルの自宅にソソルバラム氏を招いたことを懐かしむ。ウイスキーを酌み交わし、 世界情勢を語り合った。興に乗った同氏はギターを弾きながら、モンゴル歌謡「母の歌」を歌 った。

      まだ外国人と会うことが危なかった時代だ。「覚悟を決めて日本人と接触してきた」(清水大 使)。同年後半に本格化した民主化運動を、軍機関紙記者だったエルベグドルジ氏(現大統領 )ら十数人と主導するようになった。

      「『ガラー』が来たぞ」。ソソルバラム氏がウランバートル中心部のスフバートル広場で開か れる政治集会に姿を見せると、数万人の民衆はこう熱狂した。ガラーとは87年の映画「永すぎ た夏」で同氏が演じた主人公の名前。映画は港町の作業員ガラーが足の不自由な娘と心を通わ せ、最後は彼女を立たせる物語だ。

      曲がったことが大嫌いなガラーの性格が「自分と似ていて、役柄と染み込みあった」と最も満 足した出演映画に挙げる。90年2月に開かれた初の野党・モンゴル民主党の全国大会では冒頭 の発言者を務めた。モンゴルは翌月、平和裏に民主体制へ移行した。

      仲間が、大統領、国会議員などになるなか、同氏は芸術の道へと戻った。「自分の好きなこと から離れると、人間として魂が無くなってしまう」。得意分野を極めることで、モンゴルの自 由や民主を成熟させることに決めた。

      2006年には、演劇「拳の固まりの血」で13世紀のモンゴル帝国の創始者チンギスハンを演じた 。「彼の『他人の手柄を横取りしない』などの思想は22世紀まで通用する」と敬服する。多く の現代モンゴル人はかっぷくのいいソソルバラム氏の風貌をチンギスハンと重ね合わせる。

      「草原の中で育ったモンゴル人の体、声、考え方に合っている」。民族楽器の馬頭琴、歌い手 が1人で2種類の声を同時に出すホーミー(喉歌)など、モンゴルの伝統芸能の特徴をこう分析 する。いずれも仏教や自然崇拝など宗教心と結びついた「魂の芸術」だとも指摘する。

      最近は演出にも力を入れる。14年まで2年連続で、7月に行われる民族最大の祭典「ナーダム」 の開会式のプロデューサーを務めた。「モンゴルの魂の芸術を世界の大きな舞台に出したい」 との目標を掲げ、100人余りの弟子を引き連れ世界を行脚する。

      ■   ■

      4年に初めて日本を訪れて「人々の規則正しさ」に引かれ、長女を留学までさせた親日家でもあ る。日本人には「おいしい」「大丈夫」など片言の日本語で話しかける。東日本大震災の被災 地を慰問したことがあり、今年も壱岐、大阪、新潟をコンサートで訪れる予定がある。

      一方で、モンゴル政治への関心も薄れていない。4月上旬には、テレビのトーク番組で「将来の ことを広く考えない政治家が増えている」と盟友エルベグドルジ大統領らに苦言を呈した。文 化はもちろん、政治にも通じたご意見番として、愛するモンゴルの行方を見守っていく。

      伝統芸能を未来へ 若手指導に力
      1958年、モンゴル中南部バヤンホンゴル県生まれ。16歳の時に歌や踊りなどモンゴルの伝統芸 能の全国コンクールで優勝し、芸術の道を志した。82年にモンゴル国立師範大学映画舞台芸術 科を卒業し、国立劇場に俳優として就職した。

      これまでに20以上の映画と20以上の舞台への出演経験を持つ。チベット仏教で仏や菩薩(ぼさ つ)の化身とされる活仏を演じた映画「ゴビの聖者」などの作品は世界でも高い評価を得てい る。

      社会主義体制下の89年ごろに始まった民主化運動で、若きリーダーのひとりとしても知られた 。政治集会では詩の朗読や歌などで民衆を鼓舞し、現在の与党・民主党につながる野党勢力の 結集で大きな役割を果たした。

      当時の仲間が政治家として要職に就いているのに対し、同国初の民間劇場の創設など文化・芸 術を通じて自由や民主主義の大切さを国民に啓発してきた。2009年以降はエルベグドルジ大統 領に請われ、大統領の文化・芸術担当非常勤顧問を務める。

      近年はモンゴルの伝統芸能を未来に継承するため、若いアーティストのプロデュースに力を入 れている。13年にブルガリアで開かれた世界民族芸能祭ではモンゴル代表のドモグ歌舞団を率 いてグランプリを獲得し、「マエストロ(巨匠)」の称号を得た。

      趣味は帽子や小物を入れる箱を集めること。好物は元女優のニンジバダガル夫人がつくる羊肉 麺だ。1男1女に孫が3人いる。57歳。

      <2016年5月8日 日本経済新聞社 朝刊>

      スピーチ要旨

      日・モンゴルの交流を推進

      役者や歌手、演出家として活動を続けてきた。モンゴルの民族芸能であるホーミー(喉歌)や 馬頭琴などの継承や発展を目指して、アジアだけでなく世界中の人々に紹介してきた。モンゴ ルで1990年ごろにおこった民主化運動の最初のメンバーであったことも誇りに感じている。  
      東日本大震災の被災地を慰問するなど、文化や芸術の活動を通じ、モンゴルと日本の相互理解 を深めることに尽力している。モンゴル人は青い空、日本人は青い海と、「青」を愛すること に共通点がある。蒙古斑に象徴されるように、両国民は古く遡れば祖先は同じで、知恵と言葉 、技術によって平和を築くことができる。  
      モンゴルと日本は世界平和のために同じ方向へ力を尽くす関係にあると確信している。両国の 友好に対する精神を評価してくれた今回の受賞は極めて名誉なことで、感謝したい。

      (日本経済新聞5月30日掲載)

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  • 20th Winners

    2015

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    • 経済・産業部門

      マイ・キエウ・リエン氏 (中)
      ビナミルク会長兼CEO・ベトナム

      ベトナムに「乳製品市場」を作り出し、ビナミルクを同国経済の牽 引役に育て上げた。

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      マイ・キエウ・リエン氏 (中)

      新鮮な牛乳 国の人々へ

      ベトナムで最も有名な女性経営者と言って差し支えないだろう。牛乳、乳製品をベトナムに広 め、同国の食品メーカーで最大、上場企業で時価総額2位の優良企業を作り上げた立役者だ。

      4月24日、ハノイのノイバイ国際空港にベトナム・デイリー・プロダクツ(通称ビナミルク )がオーストラリアから輸入した乳牛400頭が到着した。昨年11月に稼働したばかりのタイン ホア省の最新技術を導入した牧場で飼育する。ビナミルクの乳牛の飼育頭数は2020年には現在 の1.8倍の14万頭に増える。

      ベトナムではもともと酪農はほとんど行われていなかった。牛乳といえば中国やオーストラ リアから輸入した粉末を水で加工したものしかなく、消費者は新鮮な牛乳を飲めなかった。06 年、リエン氏が本格的な酪農を始め、THグループ(通称THトゥルーミルク)など後発企業も 追随した。2人の子供を育てる親として栄養豊富な牛乳、乳製品をもっと広めたかった。

      ユーロモニターによると、1990年のベトナムの1人あたりの牛乳年間消費量はわずか0.5リッ トルだった。品質の良い牛乳が出回り、13年には36倍の18リットルになり、45年には50リット ルに増える見通しだ。「消費者目線で考えれば、消費者は必ず応えてくれる」。リエン氏はこ の成功体験から学んだ。

      素朴な疑問を真剣に考え、他人の意見をよく聞くというのが周囲の評判だ。酪農を始めたの も「なぜ、ベトナム人はあまり牛乳を飲まないのか?」と当たり前の疑問を持ったからだ。

      ■   ■

      ビナミルクは元国有企業で、03年に株式の民間売却を始めた。リエン氏は情報公開を推進し 、取締役会に外国人メンバーの参加も認めた。社会主義国のベトナムでは経営の透明性を高め る企業はまだ少なく、投資家に新鮮に映った。いまでは外国人株主の出資比率は発行済み株式 総数の49%と上限いっぱい。「ベトナムで最も成功した国有企業の民営化事例」と評される。

      ベトナムでは転職が多いことを問題視し、「社員が辞めない会社を作ろう」と社内に号令を かけた。給与水準は上場企業でトップクラスに上げ、平社員にもストックオプション(新株予 約権)を与えた。本社には社員が自由に利用できるプールも設置。結果、ビナミルクは15年の 大学生の就職人気ランキングで消費財大手のユニリーバに次いで2位となった。

      「ビジネスとはプレッシャーに打ち勝つことであり、変化を恐れてはいけない」。常に変化 を続け、間違ったと思ったときは撤退の決断も速い。一時期、ビールとコーヒー事業に参入し たことがあった。相乗効果が出ないと分かったらすぐに同業他社に事業を売却し、いまでは牛 乳・乳製品事業に特化している。

      海外にも挑戦する。第1弾として年内にカンボジアの首都プノンペンに牛乳・乳製品の工場を 新設する。カンボジアの乳業大手、アンコール・デイリー・プロダクツと共同出資で、2300万 ドル(約28億円)を投資する。

      アジアの次は欧州・中東を狙う。14年5月、ポーランドに100%出資の現地法人を設立した。 欧州を拠点に牛乳、乳製品があまり普及していない国、地域に製品を輸出する。一からベトナ ムで市場を作った成功体験を世界でも実現する。

      ■   ■

      モーレツ経営者とのイメージも強いが、オンとオフの切り替えはうまい。仕事が終わるとま っすぐ家に帰る。家事をこなし、ヨガ、プール、読書などの趣味にも時間を割く。普通の主婦 のように生活することで、消費者目線を忘れずにいられると考える。

      「困難に直面すればするほど、創造的で革新的に変わることができる」。リエン氏はよくこ う話す。誰よりも多くの困難に立ち向かい、克服してきた自信があるから言える言葉だ。

      品質にこだわり、消費者の信頼
      1953年、パリ生まれ。モスクワの大学で乳製品、肉の加工について学び、ベトナム戦争終結 翌年の76年にベトナムに戻った。菓子や牛乳工場の技師を経て、84年に当時国有企業だったビ ナミルクに入社。めきめきと頭角を現す。

      CEOだった2008年には政府から商工省の副大臣就任を打診されるが、辞退する。ベトナムで は省庁の幹部登用は大変な名誉で断る人はほとんどいない。酪農導入による品質向上を進めて いたことが理由とみられる。

      その努力は翌年報われる。中国でメラミンが混入した粉末牛乳が見つかり、大量に輸入して いたベトナムでも大問題となった。一部の乳業メーカーは製品が売れず、倒産寸前に追い込ま れるなか、ビナミルクはほとんど売り上げが落ちなかった。こだわりの品質管理が消費者に理 解してもらえていたからだ。12年にはベトナム人で初めて米フォーブズ誌による「アジアで最 も影響力のある女性実業家50人」に選ばれた。

      庶民的な側面もある。ベトナム有数の資産家ながら、お手伝いさんは雇わず、高校の同級生 だった夫と2人の子供のために毎日炊事と家事をこなす。残業はほとんどせず、携帯電話も持 たない。

      リエン氏の任期は16年まで。55歳で引退を希望していたが、慰留されて続投した。今のとこ ろ、後継者候補の名前は挙がっていない。「ベトナム人女性は結婚後も働くのが当たり前で大 変だけれども、その大変さがベトナム女性を輝かせている」。61歳。

      <2015年5月8日 日本経済新聞社 朝刊>

      スピーチ要旨

      今回の受賞はベトナム・デイリー・プロダクツ(ビナミルク)の5千人以上の従業員にとって大 きな栄誉だ。ベトナムやアジアの発展に絶えず貢献する姿勢が認められたと感じる。栄養価の 高い製品を提供するベトナム随一の企業になるのが我々の目標だ。日経アジア賞の受賞は、目 標に向かう原動力になるだろう。
      ビナミルクは国有企業として1976年に設立、2003年から株式の民間向け売却を始めた。06年に 上場してから売り上げ・利益ともに急速に成長してきた。
      ベトナムで牛乳、乳製品を広め、経済をけん引する役割も担ってきた。国外ではベトナム製品 の認知度を高めた。東南アジアなどで事業を展開し、約30カ国以上に製品を輸出している。
      今回の副賞は、ネパールの地震で被害にあった子どもたちのために全額寄付する。これは私の 希望であり、ビナミルクの企業理念にもかなっている。ベトナムだけでなく、世界中の子ども のより良い将来のため今後も最善を尽くしていく。

      (日本経済新聞5月21日朝刊掲載)

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    • 科学技術・環境部門

      王貽芳氏 (右)
      中国科学院高能物理研究所・所長

      素粒子ニュートリノで大きな課題として最後に残っていた物理的数 値を世界で最初に突き止めた実験の提案者。

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      王貽芳氏 (右)

      宇宙の真理に近づく執念

      宇宙の真理に誰よりも近づいた瞬間だった。

      2012年3月。中国・北京の中国科学院高能物理研究所で、王氏は緊張感と闘っていた。総勢 300人近い研究チームが55日間、不眠不休の試行錯誤の末にかき集めた実験データだ。間違い があるはずはない。祈るように解析を進めると、数式が確かな傾向を示した。「第3のニュート リノ振動」を99.9999%以上の確度で確定した——。

      ■   ■

      物質を構成する最小単位の一種、素粒子ニュートリノ。物理学や天文学の分野で世界の研究 者らが成果を競い合う最先端の研究テーマだ。日本でも東京大学の小柴昌俊特別栄誉教授がノ ーベル賞を受賞し、広く知られるようになった。王氏らがとらえたのは、そうしたニュートリ ノ研究でも「最後の未知」とされた物理現象だ。

      ニュートリノは知られている素粒子の中で最も軽い。宇宙や太陽から大量に降り注いでおり 、原子炉からも出ている。だが実際の観測は困難を極める。とても小さく、ほとんどの物質を 通り抜けてしまうためだ。物質を分子、原子へと分解していき、さらにその中心にある原子核 を取り出して地球に例えれば、ニュートリノは米粒ほどの大きさでしかない。粒子の中で最も 不明な点が多く「ゴースト粒子」の異名を持つほどだ。それだけに挑みがいがあった。

      王氏が着目したのは「ニュートリノ振動」と呼ばれる不思議な現象だ。

      ニュートリノには、電子型、ミュー型、タウ型の3種類があり、空間を飛んでいる間に次々と 別の種類に変身してしまう性質を持つ。これがニュートリノ振動で、パターンは3つ。このうち 2つは1990年代末から00年代初頭にかけて、日本を中心とするいくつかの国際共同実験で確定 した。王氏が解き明かしたのは、電子型から他の型へ変化する最後のパターンだった。

      ニュートリノが注目を集めるのは、宇宙の成り立ちや進化、物質の起源の謎を解くカギにな るとみられているからだ。

      例えば「反物質」の謎だ。ビッグバンで宇宙が無から誕生したとき、星や生物の体などを形 作る物質と、それとは反対の電気を帯びた反物質が同じ数だけ生まれたとされる。しかし現在 の宇宙にはなぜか物質しか残っていない。自らの状態を次々と変えるニュートリノの性質を解 明すれば、反物質が消えた謎に迫ることができるかもしれない。

      「第3の振動」はあまりに変化が小さく「存在しないかもしれない」とされていた難問だ。 なぜ中国がいち早くたどり着けたのか。「協力者が多く、実験設備も良かったからだ」と王氏 は言い切る。

      ■   ■

      人生の転機は85年、ある一人のノーベル賞物理学者との出会いだった。中国系米国人のサミ ュエル・ティン氏だ。海外留学に誘われ、11年間師事した。「設備も資金も大きければ大きい ほどいい。国際プロジェクトは研究の近道だ」。ティン氏が次々と新たな研究成果を生み出す 傍らで、国際協力の重要性を肌に染み込ませた。

      そして03年。世界最大級の大亜湾原子力発電所(広東省)近くで「第3の振動」発見につな がるニュートリノ観測施設が着工した。建設は難航した。原発に隣接する山の地下を掘り進み 、1台100トンという巨大なニュートリノ検出器を6台並べる必要がある。足かけ10年、投じた 金額は2億5千万元(約50億円)。世界中から集まった協力者の中心にいたのが王氏だ。

      探求に終わりはない。広東省江門で新たな研究事業を立ち上げる。今回は総額20億元を投じ 、地下700メートルに直径35メートル、13階建ての世界最大級のニュートリノ検出器を設置す る。もちろん国際プロジェクトだ。「日本? 当然参加してほしい。協力できることは極めて 多い」。普段冷静な王氏が珍しく声を大きくした。

      中国の素粒子物理を主導
      1963年、江蘇省南京市生まれ。92年にイタリアのフィレンツェ大で博士号取得。米マサチュ ーセッツ工科大、スタンフォード大で研究員を務めた。海外に散らばった優秀な研究者100人 を国内に呼び戻す「百人計画」を進める中国政府の招請を受け、2001年に帰国。中国の素粒子 物理学を主導してきた。11年から現職。

      「首尾一貫、道理、ロジックがないものには興味がない」が口癖だ。淡々と語った研究の理 由も枝葉が一切ない。「ニュートリノを研究することで我々の生活が良くなるとか、そんな効 用は一切ない。ただこの宇宙、世界の理解を深めたいだけだ」。解を見いだすことに執念を燃 やす。

      中国では比較的若くして成功しただけに、学界では妬まれることも多い。だがそうした雑音 は「本質的ではない」と意に介さない。リラックス方法は「読書、それに家族との会話」と意 外に普通だ。今年9月に大学生になるという娘は、父と同じ物理学を専攻するという。52歳。

      <2015年5月8日 日本経済新聞 朝刊>

      スピーチ要旨

      世界は12種類の基本粒子でできており、そのうち3つを占める「ニュートリノ」は宇宙の誕生 や進化に関わっているとみられる重要な粒子だ。
      この粒子は奇妙な性質「ニュートリノ振動」を持つ。ニュートリノが移動するうちに、別のニ ュートリノに変わるというものだ。振動は3種類あると考えられ、2つは日本で解明された。
      私たちが取り組んだのは残る1つだ。2007年に中国政府などが研究開始を承認した。長さ3キロ メートルの地下トンネル、8つのニュートリノ検知器などを組み合わせた実験施設で、3つ目の ニュートリノ振動の存在を12年3月に証明できた。
      現在、次世代のニュートリノ研究を進めている。新しい実験施設は世界最大規模となる予定で 、より詳しい解析ができる。中国が基礎科学の分野で役割を果たせてうれしい。
      アジアには優れた人材が多く、科学分野でさらに活躍できるはずだ。各国政府は経済規模、人 口に応じ、科学振興に一段と力を入れてほしい。

      (日本経済新聞5月21日朝刊掲載)

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    • 文化社会部門

      アジアユースオーケストラ(団体表彰) (左)
      香港

      アジアの若手音楽家で構成するオーケストラを毎年編成し、世界 各地で公演。音楽を通じた交流の促進に取り組む。

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      アジアユースオーケストラ(団体表彰) (左)

      音楽の才能 花開く場を

      アジアユースオーケストラ(AYO)は今年、活動を開始して25周年を迎える。「これは大事な プロジェクトだ。だれかがやらなきゃいけないんだ」。創設者で芸術監督のリチャード・パン チャス氏は資金集めに走り回っていた頃、富士ゼロックスの小林陽太郎社長(当時)にかけら れた言葉を今も覚えている。

      ■   ■

      毎年7月中旬、アジア各地のオーディションで10倍近い倍率をくぐり抜けた17-27歳の音楽 家の卵たち約100人が香港に集結する。当初3週間は朝から夜まで1日9時間のリハーサル漬けの 日々を送り、続く3週間は著名な指揮者やソロ演奏者とともにコンサートツアーで世界を回る 。6週間だけの期間限定オーケストラだ。

      1993年から計5回参加したファゴット奏者の田口美奈子さんは「世界の第一線で活躍する演 奏家十数人を講師に招いて、楽器ごとに教えてくれるのが魅力だった」と振り返る。「アマチ ュアのオーケストラではなく、プロの卵が次のレベルに進むための試みだ。才能あるアジアの 若者たちに、ここにしかない機会を与えたい」(パンチャス氏)。これまでのオーディション への応募者は2万人を超え、公演回数は366回、100万人を超える聴衆が演奏を楽しんだ。

      参加者が払うのは登録料だけで、残りの費用は企業や個人からの寄付ですべてをまかなう 。NPOの評議員会議長を務める香港の物流大手、クラウン・ワールドワイド・グループのジム ・トンプソン会長は「多くの若者が香港で出会い、練習し、素晴らしいオーケストラになって アジアに喜びを与える。これは奇跡だ」と語る。

      1990年の初コンサート以来、AYOはアジアの発展とともに歩んできた。96年にはベトナムで 50年ぶりの国際的オーケストラとして演奏した。97年の香港返還記念式典では有名チェロ奏者 のヨーヨー・マ氏と共演した。

      大都市だけでなく、地方でもホームステイしながらコンサートを開く。東日本大震災後の 2012年には仙台で復興支援コンサートを実施した。地元の家庭が温かく迎えてくれたことに、 多くのメンバーが感激したという。「祖父母や両親から第2次世界大戦の記憶を聞いていた若者 も、その国を好きになる。成功の秘訣の一つだ」とパンチャス氏は言う。

      アジアの政治的緊張と無縁だったわけではない。小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝で 日中関係が緊張していた06年、終戦記念日の8月15日には北京でコンサートが予定されていた 。「いつものように国ごとにメンバーを紹介するのですか」。日本人メンバーはおそるおそる 尋ねたが、演奏が終わり、パンチャス氏がいつものように「日本からは20人のメンバーが来て います」と紹介すると、聴衆から万雷の拍手を浴びた。

      フィリピンの沿岸警備隊が台湾漁船に発砲した事件が起きた13年。台湾当局はフィリピン人 メンバーの演奏を許可しようとしなかったが、関係者が交渉した結果、到着直前になってよう やく許可が出たこともあった。

      ■   ■

      過去四半世紀の間にメンバーの出身国・地域の構成も大きく変わった。設立当初は台湾、香 港、日本の参加者が多数を占め、中国本土からはわずか2、3人だった。だが今では中国からの 参加は2割を超え、フィリピン、タイ、ベトナム、インドネシアなど東南アジアにも広がる。

      6週間を音楽とともに過ごすうちに、国家や言語、文化の壁は次第に溶けていく。「私はソロ 演奏にしか興味が無かったが、3年前にハノイでコンサートを見て『あのオーケストラでいつか 演奏できれば』と夢見ていた。音楽への同じ情熱を共有する多くの友達ができた」。14年にベ トナムから参加した17歳のホアン・ホー・カイン・バン君は、音楽家として生きる決意を新た にしたと電子メールで伝えてきたという。

      田口さんは現在、香港シンフォニエッタで活動しているが、「AYOに参加していなければ、 オーディションを受けることも考えなかっただろう」と話す。音楽を通じてアジアを結び、ア ジアの優秀な才能を開花させるというAYOの理念は実を結び始めている。

      アジアとの関わり、半世紀に
      米国出身のリチャード・パンチャス氏とアジアの関わりは半世紀近くに及ぶ。1960年代後半 から台湾や日本で音楽教育を手がけ、中国の改革開放政策が始まってまもない頃には上海音楽 学院で教えていた。

      そのころ生徒からよく聞かれたのが「どうすれば海外留学できるのか」という質問だった。 才能のある音楽家ほど、欧米に留学しても母国には戻らない。「アジアの音楽家がアジアで学 び、何をできるかを示せる舞台をつくれないか」。頭に浮かんだのが、アジアユースオーケス トラのアイデアだった。

      設立趣意書を書き上げて、最初に持ちかけたのが、世界的なバイオリン奏者・指揮者だった 故ユーディ・メニューイン氏。事前の面識はなかったが、押しかけて説明すると「協力しよう 」と即答だったという。

      資金面では香港で「ニュースの女王」と呼ばれた胡仙(サリー・オー)星島新聞集団主席( 当時)が設立資金を出し、日本企業からも支援を受けた。「何者でもなかった私を信頼し、お 金と子どもたちを与えてくれた。いまでもどうしてなのかわからない。AYOの奇跡の一つだ」 とパンチャス氏は振り返る。

      「毎年、夏が終わると『AYOを続ける必要があるだろうか』と自分に問いかけるが、これま で以上に必要になっていると感じる」。70歳を迎えて後継者選びも視野に入るが、音楽家、教 育者としての顔に加え、資金調達の才能を持つ後任を選ぶのは至難の業だと笑う。

      <2015年5月8日 日本経済新聞 朝刊>

      スピーチ要旨

      アジアユースオーケストラは約25年前に香港で活動を始めた。文化、政治、経済の緊張が何度 もあったが、よくここまで乗り越えてこられた。
      毎年アジアの11都市で17-27歳の千人近くを面接し、約100人を選んだ後、3週間世界のコンサ ートホールを回る。公演数は世界各地で延べ366回に上る。中国での公演実績は本土以外のオ ーケストラとしては最多だ。
      メンバーからのメッセージを紹介し、受賞の感謝の言葉に代えたい。「コンサートを通じて文 化や言語の違いはあっても、多くの友人ができた」「人生と世界が大きく変わった」 文化大使として東アジアと東南アジアを回り、音楽、友情を通じて生まれる力を感じる。

      (日本経済新聞5月21日朝刊掲載)

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  • 19th Winners

    2014

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    • 経済・産業部門

      デビ・プラサド・シェティ氏 (右)
      ナラヤナ・ヘルス病院グループ 会長兼創業者・インド

      インド国内13カ所に17医療施設を所有。貧困層でも最先端の医療・ 手術が受けられる仕組みを築いた心臓外科医。

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      デビ・プラサド・シェティ氏 (右)

      貧困層にも医療を 人生捧ぐ

      さしずめ「メスを持つ『マザー・テレサ』」といったところか。

      刺すような日差しが照りつけるインド南部バンガロール。名だたるIT(情報技術)企業が本社を 構えるこの地で、貧困層向けを中心に心臓病など4つの専門病院を展開する「ナラヤナ・ヘルス 病院グループ」を経営する。病院内は日焼けした労働者や農民、サリー姿の母親に抱かれた子 どもであふれる。

      30年ほど前、英国仕込みの気鋭の心臓外科医として活躍していたころ。勤務先の東部コルカタ の病院に、運命を変える電話が入った。「診察してもらいたい患者がいる。あなたの人生を変 える出会いになるはずです」。心臓を病むマザー・テレサの側近からの匿名の電話だった。

      「神は心臓に問題を持つ人間もお作りになられた。あなたはそんな人々を救うために天から送 られたのね」。施術後、マザー・テレサが耳元でささやいた言葉が、その後の人生を方向づけ た。

      ■   ■

      外科の中で最も難易度が高いとされる心臓手術。ナラヤナグループの平均的な施術料は15万ル ピー(約25万円)とインドの一般的な病院の半額だ。今後7-10年で8万円程度に引き下げると いう。

      「『心臓手術のヘンリー・フォード』とでも呼んでください」と笑う。フォードは大量生産方 式でコストを劇的に下げ、富裕層のぜいたく品だった自家用車を大衆化した。心臓手術の効率 化とコスト削減に同じ発想を持ち込む。

      バンガロールの心臓病の病棟では毎日、バイパス手術や動脈閉塞の手術が25-30例も行われる 。手術室は23。30人以上の心臓外科医らが週6日、交代で午前6時から午後10時まで猛烈に手術 をこなす。給与は他の病院の半分以下。「一人でも多くの命を救う」という使命感と、症例数 をこなし腕を磨きたいという向上心が支えになっている。

      医師や看護師の手術着はインドのベンチャー企業が独自に製造したプラスチック製の使い捨て で、一着900ルピー(約1500円)。術後の患者は「大部屋」で体力の回復を待つ。小児病棟で は胸の縫合の跡も痛々しい子どもらが寝るベッドの間を医師や看護士が縫うように歩きまわる 。

      コスト削減と並ぶ「大衆化」の原動力が独自の保険だ。

      保険の普及に乗り出したのは2000年ごろ。地元の牛乳協同組合から、心臓病のリスクを抑える 低脂肪牛乳の普及のスポンサーを頼まれたのがきっかけだった。かねて心臓手術の治療費の高 さや大都市でしか施術を受けられないことに心を痛めていた。「祈りを唱える『唇』より、実 際に奉仕する『手』の方がより畏敬に値する」。言葉ではなく行動を。マザー・テレサの言葉 がまた背中を押した。

      スポンサーを引き受ける条件に、組合に加盟する酪農家らを対象とした保険の立ち上げを提案 。地元のカルナタカ州政府も賛同し、こうしたスキームが瞬く間に広がった。

      現在、同様の保険の加入者は300万人に拡大し、掛け金は貧しい農民でも支払える月額10-12 ルピー(約17-20円)程度まで下がった。「規模の拡大で経費を抑えれば、一人ひとりは少し ずつの金額を払うだけで高額な医療サービスにたどり着ける」

      「我々の仕組みは保険のコンセプトを変える」。新興国発のビジネスモデルとして中東やアフ リカ諸国への応用が注目されるが、実は先進国をも視野にとらえている。財政悪化や格差拡大 で先進国でも低所得者に医療サービスが行き届かない現状を危惧する。

      ■   ■

      2月末にはカリブ海の英領ケイマン諸島に病院を開業した。生活習慣病から心臓を患う人が多い 米国。米国に近く、安くて高度なサービスを提供する場所として選んだ。ケイマン政府と交渉 してインドの医師免許による医療行為を認めさせ、労働条件もインドに準じる仕組みを確保し た。

      「外科医はいわばアーティスト。手術をしているときが最高の瞬間」。60歳を過ぎた今も、1 日最低1-2件の手術をこなし、60-80人の患者を回診する。いつでも手術室に飛び込めるよう 、青い手術着に帽子をかぶったままデスクワークもこなす。

      院長室にはタタ財閥を率いたラタン・タタ氏の言葉を飾る。「もし早く歩きたければ、一人で 行きなさい。もし遠くまで歩きたければ、誰かと一緒に歩きなさい」――。相互扶助の精神こそ 医療と保険の原点だと信じている。

      コスト意識 英国仕込み
      1953年、カルナタカ州マンガロール生まれ。67年に世界で初めて人間の心臓移植手術に成功し た医師、クリスチャン・バーナード氏のニュースに触れたのをきっかけに外科医を目指すこと を決めたという。インドのKasturba Medical Collegeを卒業後、コルカタの病院で勤務。その傍 ら83年から英国の病院でも心臓手術の経験を積み、マザーテレサの担当医になった。

      ちょうどその頃、サッチャー首相の下で英国政府は医療費予算の削減に取り組んでいた。勤務 していた病院の上司が政府に呼ばれて意見を求められることが多く、その資料作りなども担当 。そこでコスト意識と、保険制度の適切なあり方について学んだと振り返る。89年に帰国後 、2001年にバンガロールに病院を設立した。

      3男1女の父親。米スタンフォード大を出た長男(28)は現在、一緒に病院で働く。次男 (26)、3男(23)、そして長女(21)の夫も医師。実兄も産婦人科医。

      学生時代、空手に出会った。手術で必要とされる「集中力と持久力」を学んだといい、「全て の若者は空手を習うべきだ」とまで言い切る。

      インドの医療インフラの普及のために、世界を飛び回る多忙な日々を送るが、たまの休暇には 妻(50)とバンガロールから直行便が飛ぶモルディブへ足を運ぶ。「何度行ったか数知れない 。あそこは世界で一番美しい場所だね」。61歳。

      <2014年5月3日 日本経済新聞社 朝刊>

      スピーチ要旨

      格安医療保険の導入促す

      心臓外科医として、人の命に値段を付けるような仕事をしている。患者の多くは母親の膝に座 る赤ん坊だ。母親には決まって「手術代はいくらかかるのか」と聞かれる。1200ドル(約12万 円)ほどだと伝えるが、彼女はそのお金を持っていない。

      人々は借金をするか、資産を売り払うかして医療費を工面している。11年前、月に11セントの 負担で手術料をカバーできる保険制度を導入するよう、州政府を説得した。今では400万人が 月22セントを払って保険に加入している。これまでに50万人の農民が手術を受けた。

      今は8億5千万人が使っている携帯電話を通じた健康保険制度の創設を政府に働き掛けている。 月に2.5ドルの通話料を払っている人が30セントの保険料を払えば、8億5千万人分の医療費を賄 えるはずだ。

      国を越えた協力も重要だ。アジアとアフリカが共同で医療関係のグローバルな大学を創設した り、医療機器の認証機関を設立したりすることで、世界の医療の質が改善すると信じている。

      (日本経済新聞5月22日掲載)

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    • 科学技術・環境部門

      高福(コウ・フク)氏 (左)
      中国科学院病原微生物・免疫学重点実験室 主任・教授 中国疾病予防制御センター副所長

      鳥インフルエンザウイルスなどの感染症の研究や対策で中国のリー ダー的存在。

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      高福(コウ・フク)氏 (左)

      ウイルスに迫る、不屈の魂

      ウイルス研究の世界的権威と知って会った人は、あまりの快活さに驚くだろう。「ドーモ、ハ ジメマシテ。発音合ってる?」。屈託の無い人当たりの良さは苦労知らずのエリートを思わせ るが、実際に歩んできたのは苦難の道だ。

      貧しい農村に生まれ、物心つけば文化大革命の嵐。高校生の時、大学入試が10年ぶりに再開さ れ、例年の数倍の志望者が殺到。ようやく試験に合格すると、希望と全く違う専攻を割り当て られた。

      ■   ■

      「腐って遊びほうけるか、自分のしたいことを勝ち取るか」。学生生活を謳歌する同級生を尻 目に寮に一人籠もり、研究書のページをめくり続けた。執念が実り、念願の微生物学と感染症 学の専攻へ。30歳で英国との交流奨学金の対象に選ばれ、英オックスフォード大留学の道を開 いた。

      専門はウイルスの立体構造解析だ。肉眼では見えないインフルエンザウイルスなどの姿を3次元 で再現する。

      研究はフラスコとビーカーが相手の地味な作業の繰り返しだ。研究対象のウイルスを培養し、 精製して結晶化。結晶にエックス線などを当て、電子などの散らばり具合からウイルスの形を 特定する。良いデータが取れなければ作業は振り出しの培養に戻る。

      球体から短い突起物が無数に飛び出した、まがまがしいインフルエンザウイルスの姿も、こう した地道な研究から導き出された。立体構造が分かれば、薬の作用を視覚的に類推できる。高 らが手がける「見える化」は新薬開発のスピードを劇的に引き上げた。

      研究者として成功した後も、組織作りで再び辛酸を味わった。2004年に中国科学院から招請を 受け、同科学院微生物研究所の所長に就任。海外に散らばった優秀な研究者100人を国内に引 き戻す中国政府の「百人計画」の一環で、大抜てき人事だったが、壁にぶつかった。

      「競争がなければ進歩もない」。そう信じる高が機構改革を始めると「あなたの考えにはつい ていけない」と人がどんどん辞めていった。当時の微生物研究所は研究テーマの割り当て、報 酬、昇進制度など何事も横並び主義で、まるで中国の国有企業だった。それでも逆風にめげず 「ここを世界トップの研究所にしよう」と残った同僚らを説得し、改革を引っ張った。

      ■   ■

      研究者としても成果を出し続けた。鳥インフルエンザウイルス「H5N1型」の異種間の感染メカ ニズムをいち早く解明。重症急性呼吸器症候群(SARS=サーズ)、鳥インフル「H7N9」と、 新型ウイルスについて新説を次々発表してきた。

      いま一番期待を寄せるのが、05年から続ける東京大学医科学研究所との共同研究。日中関係の 悪化で一時は存続が危ぶまれたプロジェクトだ。昨年9月に完成した共同研究施設は建設まで曲 折があったが、高が反対論者を説得して実現にこぎ着けた。

      「感染症に国境はない。DNAが近いアジア人同士なら、なおさらね」。日本人研究者らと手を 組んでエイズウイルス(HIV)などの感染メカニズムの解明が進む。「あきらめなければ、何で もできる。日中関係だってそうでしょ」

      家族の支え原動力に
      1961年、山西省応県生まれ。91年に渡英し、94年にオックスフォード大で博士号取得。米ハー バード大の博士研究員を経て母校オックスフォード講師に。2004年、中国政府の招請で中国科 学院微生物研究所の所長に。現在の役職は重点実験室の主任。

      「とにかく科学が好きで好きでたまらない」。現在は中国科学院の重点実験室の責任者として 、複数の研究プロジェクトを取り仕切る。時に時間を顧みず、仕事に没頭する。研究室に籠も り、徹夜で論文を書くことも多い。自他共に認める「科学狂」だが「好きなことを突き詰める 。これが働くことの最も大きな原動力」だという。

      とはいえ、仕事以外の支えも必要。それは何か聞いたところ、「家族だよ、もちろん」。実は 、妻も息子も現役の研究者。妻はオックスフォード大で化学を、息子は英ケンブリッジ大学で 生物化学をそれぞれ研究している。「家族が私を理解してくれている。好きな科学を続けられ るのも、家族がいるからだね」。こう答えた時は真顔になっていた。52歳。

      <2014年5月3日 日本経済新聞 朝刊>

      スピーチ要旨

      感染症対策、人類一丸で

      30年間、感染症の研究を続けてきた。最近ではコロナウイルスやエボラウイルスが深刻な広が りを見せている。重症急性呼吸器症候群(SARS=サーズ)や新型インフルエンザは多くの地域 で猛威を振るった。感染症は今日も人類を脅かしている。

      各国政府や企業には基礎的な科学研究への投資を呼びかけたい。病原菌に国境はない。国から 国へ移動するのにビザも必要ない。私たち人類は一丸となって立ち向かわなければならない。

      21世紀はアジアにとって重要な意味を持つ。我々は異なる宗教や生活習慣を持っているが、「 健康を良くしたい」という点では一致している。アジアで高い水準の暮らしと幸せな生活を実 現するため、協力して感染症の出現を防いでいきたい。

      (日本経済新聞5月22日掲載)

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    • 文化・社会部門

      メーファールアン財団(団体表彰) (中)
      タイ

      タイ、ミャンマー、ラオス国境の麻薬生産地を商業作物の森に変え る「ドイトゥン開発プロジェクト」を展開。少数民族の自立を促し ている。

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      メーファールアン財団(団体表彰) (中)

      麻薬の巣窟から自立の芽

      タイ最北部チェンライ県。午前8時、霧が立ちこめる木立の間に、軍手に長靴姿の女性たちが散 らばって行く。マカダミアナッツの実を拾っては袋へ収めるきつい作業は日暮れまで延々と続 く。標高千メートルの山岳地帯にナッツ農園は6つ。そのうちのひとつ、約60ヘクタールの畑 の責任者を務めるソーホンさん(28)が「1人が1日に100キログラム以上は収穫します」と教 えてくれた。

      ■   ■

      メコン川を挟みミャンマー、ラオスと接する緑豊かなこの地には30年ほど前まで、荒涼とした 風景が広がっていた。「黄金の三角地帯」と呼ばれ、焼き畑でケシを栽培する無法地帯だった のだ。

      それを一変させたのが1988年、タイ王室系のメーファールアン財団が地名を冠して始めた「ド イトゥン開発プロジェクト」。辺境の荒廃に心を痛めたプミポン国王の母、故シーナカリン妃 殿下が自ら持つ財団を活用し、森林再生と麻薬根絶に着手した。

      一帯に暮らすのはアカやラフー、中国雲南など6つの少数民族約1万人。「彼らはひたすら貧し く、何も持っていなかった」と同財団のディスナダ事務局長。地元住民の働く場所をつくり、 ケシ栽培と貧困を同時に解消する30年プロジェクトが動き出した。

      1万5千ヘクタールの広大な山間部の再生に選んだのはマカダミアナッツとコーヒー豆。前者は いったん育てば100年間収穫でき、後者は日光の届きにくい木陰でも栽培できる。女性たちに は紙すきや手織り、陶芸も教えた。工房では常時100人以上が少数民族独特の刺しゅうを施し た織物やカバン、コーヒーカップなどを作る。北欧からデザイナーも招き、ただの民芸品にと どまらない手工芸品に育てた。

      プロジェクトの大きな特徴は、自前の小売りルートを開拓したことだ。「ドイトゥン」のブラ ンドを冠してカフェや雑貨店を展開。バンコク中心部や空港内など15店を数え、財団と親交の 深い茨城県の病院内にも出店している。コーヒーからナッツを加工したケーキやクッキー、カ ップや皿まですべて自家製だ。

      小売りまで押さえることで「より大きな利益を得られ、品質やブランドもコントロールできる 」とディスナダ事務局長。コーヒーを生豆で売れば1キログラムあたり約56円(2013年時点) どまりだが、カフェで飲料として提供すれば同2万5千円。付加価値は450倍に跳ね上がる。 発展途上国の産品を適正価格で購入・販売する「フェアトレード」は世界で広まりつつあるが 、買い手の善意に依存するもろさもはらむ。川下まで自ら手がける財団の手法は「フェアリテ ール」とも呼べる斬新な試みだ。

      活動は経済にとどまらない。国籍を持たなかった少数民族に政府の身分証を発行、医療や福祉 などの公共サービスを受けられるようにした。教育も重視し、高校修了課程を含む8校を運営す る。

      「かつてこの地に仕事は2種類しかなかった。ケシの栽培か、国境をまたいだ武器の運び屋だ 」。自らも違法行為に手を染めていたという雲南族のウィーラチットさん(51)は「最初は誰 も計画を信じなかったが、道路が通り、電気がきて、職場までできた。財団が来てくれなけれ ば、私はこうして生きていなかったかもしれない」と振り返る。

      計画の成功は数字が雄弁に物語る。一連の事業は01年に黒字転換し、現在の売上高は年約16億 円。人件費などを差し引いても5%分の利益が残り、設備投資や学校補助金などに回せるように なった。地元住民の世帯年収は当初の855ドルから10倍の8749ドル(10年)に膨らみ、大卒者 も25倍の900人弱に増えた。

      国連薬物犯罪事務所(UNODC)は03年、ドイトゥン開発計画を「麻薬撲滅に世界で最も成功し た事例の一つ」と認定している。

      ■   ■

      計画の期限である2017年以降は主体を地元住民へと移す方向だ。地元民はこれまで作物を財団 に売ったり、財団から給料を得たりするだけで、事業リスクは財団が引き受けてきた。財団が すぐ手を引くわけではないが、ディスナダ事務局長は「いずれ地元住民が株主として参画して もらえるようになれば」と語る。

      貧困から抜け出した人々がリスクを分担する自律した担い手になる――。新しい形へ進化したと き、タイが世界に問いかけるフェアリテールが持続的なモデルとして再び脚光を浴びるだろう 。

      国王のいとこ 財団支え
      メーファールアンとはタイ語で「母堂が空からやってくる」という意。国民の尊敬を集めるプ ミポン国王(ラマ9世王)の母・シーナカリン妃殿下が資金を拠出し、貧困にあえぐ人々の生活 向上を支援する非政府組織(NGO)として1972年に設立された。当初は手工芸品の買い上げや 教育支援が主な活動だったが、88年に始めたドイトゥン開発プロジェクトの成功により、海外 からもその活動が知られるようになった。ドイトゥンの経験を生かし、ミャンマーやアフガニ スタンでも同様の事業を支援する。

      財団の実務を取り仕切るディスナダ・ディッサクン氏はラマ4世王のひ孫で、現国王のいとこに あたる。欧米留学を経て64年、タイの内閣府に相当する国家経済社会開発委員会に入庁した 。3年後、28歳の時に国王直々の要請を受け、妃殿下の私設秘書に転じる。95年に妃殿下が逝 去するまで「朝起きて夜眠るまで、息子である国王陛下よりずっと長くそばにお仕えした」。

      財団設立後は事務局長に就任、ドイトゥン計画でも責任者として奔走してきた。当初は「王族 に貧しい少数民族のことを理解できるはずがない」という陰口も耳に入ったが、構わず辺境の 地に飛び込み、地元住民と対話を重ねた。住民の要望を知ろうとする姿勢と飾らない人柄で、 信頼を勝ち取った。

      財団の副事務局長である妻と、2人の息子がいる。大の親日家で年に4回は一家で日本旅行を楽 しむ。74歳。

      <2014年5月3日 日本経済新聞 朝刊>

      スピーチ要旨

      脱・麻薬生産と自立を支援

      メーファールアン財団は1972年にタイのプミポン国王の故母后によって創設された非営利団体 だ。88年に始めた「ドイトゥン開発プロジェクト」は、ミャンマー国境沿いの貧しい地域で雇 用を創出し、貧困問題を解決する目的で始まった。

      地域の6つの民族の多くは国籍を持たず、アヘン栽培や人身売買、武器の密輸で生計を立ててい た。我々は植林で農業に必要な土壌と水を取り戻したほか、コーヒーやマカデミアナッツ、切 り花など付加価値の高い作物の栽培を始めた。独自ブランドで製品も販売し、2000年以降は4 つの事業からの収入だけで自立運営している。昨年は15億円の売り上げがあった。

      26年たった今、彼らはもうアヘンや人身売買に頼らず、合法的な生活をしている。8割以上の 人々はタイ国籍も取得した。このプロジェクトは持続可能な開発の生きた証しといえる。02年 以降、ミャンマーやアフガニスタン、インドネシアなどでも要請を受けて同様の活動を展開し ている。

      (日本経済新聞5月22日掲載)

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  • 18th Winners

    2013

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    • 経済発展部門

      チュオン・ザー・ビン氏 (左)
      FPT会長兼CEO・ベトナム

      ベトナム最大のIT企業の創設者。業界団体の設立や人材育成を通じ 同国のソフトウエア産業を育てた。

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      チュオン・ザー・ビン氏 (左)

      ITの雄 13カ国に拠点

      昨年、地元紙に「ベトナムで最も影響力のある経営者」の1人に選ばれた。ベトナム戦争の傷痕 がまだ残る1988年、同国最初のIT(情報技術)企業であるFPTを創立。四半世紀にわたって、IT 産業をけん引し続けてきた。「次代のIT大国」ベトナムのトップランナーだ。

      4月上旬に開催されたFPTの定時株主総会。壇上でにやりと笑うと、同社が独自技術を導入した 人型ロボットを紹介した。ベトナム語や英語で話し、韓国人歌手PSYのヒット曲「江南スタイ ル」にあわせて踊るロボットについて、うれしそうに説明を続けた。無邪気な姿はコンピュー ターに憧れた少年時代から変わらない。

      中学1年生の時、教師に連れられて、ベトナムに輸入されたばかりの旧ソ連製コンピューター「 ミンスク―32」を見学。「部屋全体を占めるほど巨大なコンピューターに興奮し、忘れられな くなった」。この出来事が人生に大きな影響を与えることになる。

      ■   ■

      起業の動機は生活苦からの脱却だった。ベトナム戦争終結から10年余。社会主義経済は行き詰 まり、食料不足が続いていた。研究者としての月給は約5ドル。とても家族を養うことはできな い。「何とか家族の生活を良くしたい」。何をしようか考えていた時にミンスク―32の記憶が よみがえってきた。コンピューターやIT技術をビジネスにできないか。旧ソ連に留学した当時 の仲間に声をかけた。

      創業当時は食料事情を改善しようと食品加工技術の開発を目指したが芽が出なかった。そこで イタリア製パソコンの輸入販売などをしながらソフトウエア開発の技術を磨いた。当時のベト ナムでは航空会社の予約管理や銀行の出納記録も手書きが一般的。これをデジタル化するソフ トなどを開発し、実績を伸ばした。

      飛躍のきっかけとなったのは96年のインド視察。「ベトナム人にだってできるはずだ」。IT企 業のタタ・コンサルタンシーサービシズやインフォシスの職場を見学し、生来の負けん気に火 がついた。開発コストの安さを武器に、米マイクロソフトなど海外企業から受注。今はベトナ ムを含め世界13カ国に拠点を持つ。

      とりわけ日本企業とは結びつきが深い。日立、NTT、キヤノンなど大手企業を中心に約60社か ら開発を受託。ソフトウエア開発の売上高の50%超が日本企業からの案件だ。今やベトナムは インドを抜き、日本企業のオフショア開発先の2位。同1位の中国で賃金高騰や政情リスクが高 まるなか、FPTへの期待はさらに高まっている。

      「最も大切なのは人材」というのが持論。98年にインド企業と合弁でプログラマー養成センタ ーを設立。これまでに7万人のベトナム人技術者を養成した。

      2007年には民間企業として初めて、IT技術者を育成する4年制大学「FPT大学」を開校。英語を 必修科目にし、オフショア開発に不可欠な「コミュニケーター」の養成を強化した。1万5千人 いる在校生のうち約6千人が日本語も学んでいる。英大学評価機関がつけた評価は3つ星。FPT 高校の開校準備も進める。

      事業領域はこれら教育部門に加え、ソフトウエア・基幹システム開発、インターネットプロバ イダー事業、タブレット型PCやスマートフォン(高機能携帯電話)などIT機器の生産・販売と 幅広い。従業員数はグループ全体で1万5千人に。売上高は10年で12倍の約1200億円になった。 業界全体の育成にも尽力する。01年にベトナムソフトウエア協会(VINASA)を設立し、会長を 務める。同業他社と協力した案件受託にも積極的だ。今ではベトナムのIT産業は市場規模が1兆 円を超え、IT関連人材も30万人以上に増えた。

      ■   ■

      目覚ましい成長ぶりはベトナム政府も動かした。政府はIT産業を「各種インフラの基盤」と位 置づけ、ハイテク企業向け税制優遇策を開設。20年までに100万人のIT人材育成を目標に掲げ る。

      周囲からカリスマ的と評される言動は、独特の経営哲学に彩られている。「戦争とビジネスは 共通点がある」と考え、同国の英雄ボー・グエン・ザップ将軍などに面会。戦時中の部下の管 理法や戦術を学んだ。日本や中国の歴史、哲学にも造詣が深い。その思想が戦時中のように社 員全員が競い合って創造力を発揮する「FPT文化」と呼ばれる独特の企業文化を生んだ。 今後は「クラウドコンピューティング、ビッグデータなどスマートサービスに力をいれる」と いう。米シリコンバレーに3月、研究開発(R&D)センターを開設したのも先端技術を吸収する ため。スタッフ数を10万人以上に増やし「スマートサービスのグローバル企業になりたい」と 意気込む。

      貧しさバネに飛躍
      1956年、ベトナム中部ダナン市生まれ。ベトナム戦争が始まった幼少期は、貧しさと背中合わ せだった。空腹を満たすために「友人とカエルを見つけては焼いて食べていた」

      小中学生のころから成績優秀だった。ベトナム全土から生徒が選抜されるチューバンアン高校 に数学専攻で入学を許された。当時の夢は物理学者で「アインシュタインがヒーローだった 」。74年に旧ソ連のモスクワ大学に国費留学。大学院を修了した後、88年に12人の仲間とFPT を創業した。当初は国営企業だったが、2002年に民営化を果たす。

      手本は日本企業。「三菱や住友など何百年も続く大企業から経営哲学を学んだ」。日本の経営 者とも親交が深く、三菱商事の小島順彦会長や日産自動車のカルロス・ゴーン社長とは毎年の ように面会する。課題は後継者づくり。09年4月に後継者を指名して最高経営責任者(CEO)か ら一時退いたが、12年9月に復帰。「全事業に精通している人間がおらず、社員に対する知名 度も低かった」と失敗を認める。改めて4年計画で後継者集団の育成を進めているが、会長職は 続ける意向。

      「世界はさらにデジタル化し、人と人、人と企業のコミュニケーションが密になる。様々なチ ャンスも生まれる」。まだまだ意気軒高だ。56歳。

      <2013年5月4日/日本経済新聞>

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    • 科学技術部門

      テジラジ・アミナバビ氏 (右)
      ソニア薬科大学名誉教授・インド

      新しい高分子膜の開発とその応用の権威。高分子科学研究所を開設 し、後進の指導にも尽力した。

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      テジラジ・アミナバビ氏 (右)

      脳の患部に薬を届ける

      「赤ひげ先生」という呼び名が科学の世界にもあるとしたら、こんな人のことを言うのかもし れない。インドの首都ニューデリーから飛行機と車を乗り継いで丸一日。南部カルナタカ州ダ ルワルという片田舎にある、生徒数わずか200人のソニア薬科大で研究に打ちこむ。

      彼が校舎内を歩くたびに、学生の人だかりがザザッと動く。先生の言うことは一言も聞き漏ら さないぞという生徒の熱気が伝わってくる。

      「ここにがんに効く良い薬があるとするよね。でも、これをピンポイントにがんのある場所に 体内を通して運ぶのは至難の業。我々はその薬を運ぶ『車両』を開発しているんだ」。いつの 間にか「講義」が始まっていた。

      ■   ■

      胃で消化されず、かつ、不純物に拒絶反応を示す脳の患部に薬をどうやって直接届けるのか。 この難題を、天然由来の原料による高分子素材を使った新タイプの膜を開発することで解決し た。

      100万-10億分の1メートルサイズの微小な球状カプセルや微小な穴が開いた多孔質体の加工に も成功。薬を体内の患部に届ける独自のシステムを確立し、がんやアルツハイマーなど脳の病 気の治療で必要とされる投薬システムの世界的権威だ。

      貧しい農家に生まれた。カルナタカ大で化学の修士号を取得し、大学講師としてコツコツため た資金で、新しい分野として注目を集めていた高分子素材の研究が盛んだった米国に渡った。 テキサス大オースティン校から毎月400ドルの奨学金を受けながら博士号を取得。その後、ニ ューヨーク州のクラークソン大などで研究を重ねた後、1982年に母国に戻る決心をした。「米 国では実験設備も充実、研究資金も申し分なく、みんなから『気は確かか?』と言われた。で も、自分の蓄えた知識を故郷の進歩のために生かしたかった」

      母校カルナタカ大で後進を指導しつつ、毎夏、米国でスリーエムやデュポンなど大手化学メー カーなどと組み製品への応用で実績を重ねた。「インドでは派手な研究開発をしたくても機材 もなく、お金もない。でも、その分インド人は机上や頭の中でよく考える。『無から有を生む 』。それがこの国の強みであり、基礎研究に向いている」と分析する。

      「セレンディピティー」という科学の世界で好んで使われる言葉を大切にしている。「探して いるものとは別の価値あるものを発見する」という意味だ。

      「ドクター・シラカワのケースが典型だ」。2000年に導電性高分子の発見で、白川英樹筑波大 名誉教授と共にノーベル化学賞を受賞したアラン・マクダイアミッド氏(07年死去)。同氏は 白川氏の研究室を訪ねた際、誤って規定を超える触媒を入れて真っ黒になった導電性ポリアセ チレン膜を見てひらめき、共同研究を持ちかけノーベル賞につながった。

      ■   ■

      研究室の壁には、そのマクダイアミッド氏と映った写真が大事に貼られている。燃料電池向け の高分子複合材やナノファイバーの研究に2人で没頭した。

      目下、先進国への階段を駆け上るインドだが、その裏で環境問題はこの国をむしばんでいる。 ナノレベルの浸透や電解透析といった細胞膜を使った分離の実証で、工場排水の浄化や塩水の 淡水化などの分離技術などに応用した。自分が開発した環境技術が母国に広がることを夢見て いる。

      経験継承に心砕く
      1947年にカルナタカ州ガダッグに生まれた。70年にカルナタカ大で修士号を取得後、75年に渡 米。82年にインドに帰国し、カルナタカ大で2007年の定年退職を迎えるまで教壇に立った。

      02年にはインド政府から資金提供を受け、同大高分子科学研究所を設立し所長にも就任した。 定年後、インド新興財閥、リライアンスのグループ企業のコンサルタントを務めた後、ソニア 薬科大名誉教授兼製薬技術研究所長に。また、全インド技術教育委員会の名誉フェローも務め る。今は自分の知識や経験を若い研究者や学生に継承することに心を砕く。

      子どもの時から水泳が得意で、米国に滞在する際はよく泳ぐが「この田舎町にはプールすらな いからね」と少し寂しげ。ヨガにはまった時期もあった。瞑想(めいそう)は大事だが「その 日にすべき仕事のことばかり考え、邪心が入るのでやめた」。妻(58)との間に3人の娘。66 歳。

      <2013年5月4日/日本経済新聞>

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    • 文化部門

      ヴァン・モリヴァン氏 (中)
      建築家・カンボジア

      「独立記念塔」や「オリンピックスタジアム」など、カンボジアを 代表する独創的な建築物を生み出した。

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      ヴァン・モリヴァン氏 (中)

      アンコールの美 現代に

      カンボジアの首都プノンペン中心部から車で10分。緑に包まれたヴァン・モリヴァン氏の自宅 が見えてくる。1966年に自身が設計・建築した「作品」のひとつだ。

      採光、通風、そして自然――。高温多湿の気候や風土がはぐくんだカンボジアの伝統建築と、フ ランスで学んだ近代建築を融合。コンクリートと木のぬくもりが共存する室内には、窓から木 漏れ日のように自然光が降り注ぎ、心地よい風が通り抜ける。

      ■   ■

      創作の原点は40-50年代のフランスのパリ。多くの芸術家を輩出した国立美術学校エコール・ デ・ボザールに留学し、建築学を学んだ。「当時、戦争が終わった欧州では都市の再開発が進 んでいた。特にフランスは新たな文化のアイデアやエネルギーに満ちあふれていた」と述懐す る。

      なかでも影響を受けたのは、近代建築の祖といわれる建築家ル・コルビジェ。彼の弟子や一緒 に仕事をした人々と交流し、インスピレーションを蓄えていった。祖国カンボジアが生み出し たアンコール遺跡の美しさや機能性の素晴らしさを再確認したのもこの頃だった。

      留学から帰った1956年に才能が開花した。建国の父ノロドム・シアヌーク前国王のもと、フ ランスから独立したばかりのカンボジアは、新国家建設にふさわしい建築物や都市計画を求め ていた。国家建築物の主任建築家と都市計画・住宅整備局長に抜てきされたのは30歳のモリヴ ァン氏だった。

      「シアヌーク前国王は若者にチャンスを与えてくれた」。最大の理解者を得たモリヴァン氏は 新しいアイデアの建物を次々に生み出した。

      アンコール時代の装飾と現代建築の要素を両立させた独立記念塔。扇形の外観が特徴的なチャ トモック国際会議場。「コルビジェ建築」に通じるピロティや日よけを備えた外語大学校舎。 後に「ニュー・クメール建築」と呼ばれるジャンルを築いたモリヴァン氏が設計した作品は80 カ所以上。当時の公共建築の約8割を占めたといわれる。

      最高傑作は何か。そう尋ねると「オリンピックスタジアム」と即座に答えが返ってきた。63年 の東南アジア競技大会開催にあわせて建設が進められた同スタジアムは6万人を収容できる屋外 競技場に加え、水泳競技場や選手宿舎などを含む、同国初の複合開発だった。

      雨の多いカンボジアの気候を踏まえ、競技場の設計にはスタンドとグラウンドの間に溝を作る など排水しやすい工夫を取り入れた。「都市全体のスケールを考慮し、自然環境や歴史も尊重 した設計思想は現代に通じる高い水準だった」と、カンボジア建築に詳しい1級建築士の小出陽 子氏は語る。

      だが、独立後の国家建設に沸いた「カンボジアの黄金期」は長くは続かなかった。70年に親米 のロン・ノル政権が実権を握るとシアヌーク前国王は国を追われた。モリヴァン氏も翌年、ス イス人の妻と6人の子どもとともにスイス・ローザンヌへと亡命した。

      極端な共産主義を打ち出したポル・ポト政権の大量虐殺、ベトナムのカンボジア侵攻など内戦 が続き、ようやく帰国できたのは20年後。国は荒れ果て「カオス(混沌)だった」。彼が残し た建築物の設計図や図面は廃棄されていた。

      ■   ■

      真っ先に取り組んだのは彼が「国の遺産(レガシー)」と呼ぶアンコール遺跡の保存・修復だ った。破壊こそ免れたが、風雨にさらされて有害なカビに侵食されていた。

      シアヌーク前国王に請われて政府の国務大臣に就くと、遺跡の保存・修復と、そのための人材 育成に全力を挙げた。ともに作業にあたった上智大の石沢良昭特別招聘(しょうへい)教授は 「モリヴァン氏は『遺跡はカンボジア人の手で修復すべきだ』と常に言い続けていた」と振り 返る。

      アンコール遺跡が世界遺産に登録された後、95年にアンコール地域遺跡整備機構(アプサラ機 構)の初代総裁に就任。日本、フランス、国連などからなるチームを率いた。「清廉で、誰も が尊敬する彼だからこそ全員をまとめられた」(アンコール遺跡修復に参加した考古学・民俗 学者のアン・チュリアン氏)

      今、愛してやまない祖国では新たな問題が起きている。経済発展に伴う乱開発だ。プノンペン 市内では政府の土地収用が進み、中国・韓国などの資本による開発が進む。彼の作品も再開発 という名の波にのまれ、姿を消しつつある。

      昨年10月にシアヌーク前国王が死去し、ひとつの時代が幕を閉じた。だが、カンボジアでは改 めてモリヴァン氏の業績を見直す機運も高まっている。米国と現地の研究者が中心となって、 現在残っている作品から図面を起こし、後世に残そうというプロジェクトを進めている。

      今も若手建築家らが自宅を訪ねてくると何時間も講義をする。「若い建築家も海外を旅して、 いつの日かカンボジアに戻ってきてほしい」。希望に満ちた目でそう語った。

      日本建築にも造詣
      1926年、カンボジア南部のカンポット州生まれ。両親は貧しい農家で「お金を稼ぐため」に法 律を学び、公務員を目指した。46年にパリへ留学した時も当初の専攻は法律学。建築学に転向 したのは、アメリカンコミックが好きで、よく絵を描いていたのを見た教師に勧められたのが きっかけだという。

      当時、カンボジア人のエリート層にはフランス留学組が多く、パリの学校では後にポル・ポト 政権の国家幹部会議長(国家元首格)となったキュー・サムファン氏らと席を並べた。「彼ら は共産主義にかぶれていたが、私は共感できなかった」

      56年の帰国後は建築家としての活動に加え、芸術・教育を振興する役割も担う。65年に王立芸 術大学学長、67年に教育・芸術相を歴任。71年の亡命後は、国連人間居住計画(ハビタット) の上級技術顧問として、ラオスやアフリカのブルンジで活動していた。

      日本建築への造詣も深い。妻との新婚旅行で奈良・京都を訪問。「日本建築はカンボジアの建 築とは全く異なるが、自然環境と調和していて素晴らしい」と絶賛する。建築家では丹下健三 氏を尊敬している。

      妻と2人暮らし。1日の大半を読書と、自著の英語版発行などに向けた仕事に充てる。近所に住 む孫の学校への送り迎えや犬の散歩が日課だ。86歳。

      <2013年5月4日/日本経済新聞>

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  • 17th Winners

    2012

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    • 経済発展部門

      楊勇(ヨウ・ユウ)氏 (左)
      環境保護活動家・中国

      中国・長江の生態系や水質を20年以上に渡ってボランティアで調査 し、環境保全を訴え続けている。

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      楊勇(ヨウ・ユウ)氏 (左)

      自然見つめ政府に警鐘

      「ここから見える風景はマンションと工場だけになってしまった」。自宅兼オフィスがある四 川省成都市のマンション。車の排ガスや建設ラッシュで巻き上がるホコリが立ちこめ、街を取 り囲む山々は見えない。中国だけでなく、世界各国の環境問題の専門家らが足しげく通う小さ な一室のテラスで楊勇氏はつぶやくと、地図を片手に自宅を足早に飛び出した。

      実は、成都にはほとんどいない。現場にこだわり、自ら歩いて地質や水質の調査を進める。調 査予定がもともと決まっている政府の調査団とは異なり、気になった場所では徹底的に何度も 調査する。最近取り組んでいる水源調査ではチベットなど4万キロ以上を走破した。

      四川省は長江や黄河の源流など1400本の河川が流れる肥よくな土地。干ばつやききんが少なく 、「天府之国」と称される。しかし、最近は森林伐採やダム建設が増加の一途をたどり、環境 の破壊が深刻化。中国文明を育ててきた源から中国の環境問題に警鐘を鳴らす在野の研究者と して知られる。

      原点は、チベットを水源として長江に流れる金沙江だ。人民解放軍兵士の父と、医学を修めた 母の間に生まれ、四川省で雲南省と接する涼山彝(い)族自治州の辺境で過ごし、自然と親し んだ。小中高は文化大革命の影響で勉強はできず、農村での労働ばかり。ただ地図だけは片時 も手放さず、地質や地理の勉強への情熱は捨てなかった。

      1977年に大学が再開すると、四川砿業学院(現・中国砿業大学)に進学。鉱物資源を開発する ための技術者を養成する教育機関で、石炭の探査などを通じて地質調査のノウハウを身につけ た。卒業後は四川省攀枝花(はんしか)市の鉱務局に勤務。炭鉱の坑道策定や開発に使う地質 調査を手掛けた。

      転機は86年に訪れた。米国人が85年に長江の源流から河口まで川下りをする冒険を試みること が明らかになり、米国人に先を越されまいとする動きが中国人の間に起きた。楊勇氏もその一 人で、86年に川下りに挑戦。仲間が亡くなるなどの障害を乗り越えて半年かけて成功した。「 川下りは単なる冒険だったが、河川の自然破壊の実態を知った」と振り返る。

      そこで88年に上流の金沙江の流域を5カ月間かけてじっくり調査。工業廃水による水質汚染に 加え、森林伐採の影響で地盤が弱くなり、がけ崩れや土砂流出が頻発している実情をつかんだ 。当時は政府が三峡ダム建設の最終判断を下す前で、河川のありのままの姿を知らせることが 急務だと判断した。

      李鵬首相(当時)に、長江上流の状態を撮影した写真を貼った報告書を送付。日本の国会に相 当する全国人民代表大会(全人代)の代表や政府幹部や北京の専門家と連絡をとり、慎重な判 断を求めた。関係者によると、楊勇氏の調査などが後押しとなって会議では三峡ダムの建設が 先送りになった。

      しかし、89年に天安門事件が起きると事態は一変。職場が長期休暇を認めなくなり、中央政府 の幹部らの支持も失う。三峡ダムの建設も固まったことから、楊勇氏は辞職して独自に環境調 査を始めた。旅行会社で外国人専門家の中国での現地調査や冒険イベントなどの調整役をして 稼ぎながらの活動だ。

      2000年には非政府組織(NGO)「横断山研究会」を立ち上げる。政府が約6兆円を投じて中国 南部の豊富な水を水路などによって北部に運ぶ「南水北調」プロジェクトに着手したことから 、楊勇氏は水源の実態調査を強化する。同プロジェクトは3本の路線を予定しているが、最も 上流に位置する西ルートは「水量が少なく、工事も難しいため非現実的だ」とする調査をまと め、政府の開発凍結の判断に影響を与えた。

      最近はダム建設と自然災害の関連についても多くの調査を手掛ける。三峡ダムが中国南部で相 次いで発生している干ばつや集中豪雨などの天災の一因となっていると分析。08年の四川大地 震では近隣のダム建設が地盤に影響を与え、「地震の一因になった」との見方を示す。

      「経済発展と自然災害は関連している」が持論。ダム建設では、国有の発電会社や建設会社が ダム建設を推進するが、住民の転居や災害は地元政府が責任や費用を負う。「電力会社などの 利益を考えるだけでなく、社会的影響を含めた総収益を計算し、建設の是非を論ずるべきだ」 と提言。自然保護だけを声高に訴える団体とは一線を画し、実態調査に徹しており、国営メデ ィアからの取材も多い。

      昨年3月に日本を襲った東日本大震災にも関心を寄せる。東京電力福島第1原子力発電所で放射 性物質の漏洩事故が起きたため、中国でも原発計画の見直し機運が高まる。「人類は災害の発 生を完全には予知できないが、リスクを考えることはできる」。高成長を続ける中国の環境破 壊は進み、自然災害も増え続ける。楊勇氏の現場調査に終わりはない。

      (重慶=多部田俊輔)

      自由な立場での調査重視
      1959年、中国四川省南部の涼山彝(い)族自治州金陽県出身。政府組織の一員として環境対策 を講じるのではなく、独立した自由な立場で環境保護の大切さや持続可能な経済発展の必要性 を主張する。政府の一部になると、現場での作業が通り一遍となり、結論ありきの調査になる 恐れがあるためだ。一人もしくは少人数で徹底的に現場を調べる手法を採用する。

      調査結果については、環境問題などのシンポジウムで発表するほか、政府や研究機関に張り巡 らされた人的ネットワークを通じて喫緊の問題を国家の上層部に伝える。中国国営の新華社や 中国中央テレビ、米CNNなど国内外のメディアの報道によって、政府の政策決定に影響を与え ている。息子は旅行専門テレビ局の記者。52歳。

      [2012年5月4日/日本経済新聞]

      スピーチ要旨

      一人ひとり環境に責任

      中国では急速な経済発展に伴い水不足が日増しに深刻になっている。気候変動の影響や産業用 水の利用による問題、水質汚染など背景は様々だが、原因を一つ一つ明確にしてこそ対応策が 見えてくる。やみくもに(ダム建設など)大型工事をしてもダメだ。

      これまでの経済発展を振り返り、成長の方法を見直す必要がある。生活や消費習慣を変えて解 決すべきだ。国際協力を通じて河川や水資源を持続できるような発展に取り組み、命の源であ る水が永続的に恵みをもたらすよう望んでいる。

      我々は科学技術の進歩などにより物質的な豊かさを得た。だが、多くの資源を使った結果、行 き過ぎた発展や消費という問題が起きた。どんな未来を選択すべきか、重要な時期を迎えてい る。すべての国、すべての民族の一人ひとりが未来に責任を負うべきだ。

      [2012年5月24日/日本経済新聞]

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    • 科学技術部門

      翁啓恵(オウ・ケイケイ)氏 (中)
      中央研究院院長・台湾

      「糖鎖化学」と呼ばれる分野の世界的な研究者。新たなワクチンや 新薬の製造に道をひらいた。

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      翁啓恵(オウ・ケイケイ)氏 (中)

      糖鎖の製薬利用に道

      台北市の中心部から車で約30分。緑の木々に囲まれた清涼感あふれる丘の上に、台湾の学術研 究機関の最高峰とされる中央研究院がある。この院長を2006年から務めるのが翁啓恵氏だ。前 任者は台湾で唯一のノーベル賞(化学賞)受賞者である李遠哲博士。この役職が台湾でいかに 重視されているかを物語る。

      翁氏は「糖鎖化学」と呼ばれる分野の世界的な研究者だ。細胞の表面で情報伝達などの機能を 持つ糖鎖を短時間で大量に合成する技術を開発。この成果はがんや感染症などの診断・治療な どに幅広く応用され、ワクチン開発や製薬にも貢献している。

      「化学者になるのが幼いころからの夢だった」とほほ笑む。1948年に台湾の中西部にある嘉義 県で8人兄弟の6番目として誕生。メロンやミカンなどの栽培で知られる農業地帯だが、日本 に留学経験もある教育熱心な父母のもとで育った。内気な子どもだったが好奇心は人一倍。自 宅や図書館の化学の本を読みあさり、学校の授業では目を輝かせて実験に取り組んだ。 だが両親は息子が医者になることを望み、台湾大学の医学部の受験を強く推薦。結局、医学部 には不合格で農業化学部に進んだ。翁氏は「あのとき医学部に合格しなくて本当にラッキーだ った」と苦笑いする。

      77年に台湾大大学院の化学研究科を修了し、79年に米マサチューセッツ工科大学大学院に留学 。82年に博士号を取得した。ライフワークとなる糖鎖の研究に興味を持ち始めたのもこのころ だ。

      糖鎖は各種の糖が鎖のように長くつながった物質。たんぱく質やDNA(デオキシリボ核酸)に 続く第3の生体分子といわれる。細胞の表面に木の枝のように張り出し、侵入してきた菌やウ イルスを感知するアンテナ機能などを持つ。糖鎖の異常を分析できれば様々な疾患の治療につ ながるが、構造が複雑なため研究に必要な糖鎖の大量合成が「実現不可能」とされてきた。

      89年にカリフォルニア州のスクリプス研究所教授に就任。日夜研究に没頭するなかで92年に発 見したのが、従来の化学合成に酵素反応を組み合わせて糖鎖の大量合成を可能にする技術だっ た。さらにこうした反応を短時間で促進する技術も99年に開発。これにより各種の実験・検査 に必要な糖チップや糖たんぱく質の合成が可能になり、ワクチン開発や製薬への応用にも道を 開いた。

      これらの成果の一端が、翁氏が07年に発表した乳がんワクチンの開発だ。糖鎖の設計技術を活 用し、非ウイルス性のがんに対するワクチンとしては世界初という。発表当時の段階で、末期 症状の患者に対する治療有効性は80%以上という。早ければ来年にも臨床試験(治験)を終え て製品化される見通し。「乳がん以外の多くのがんの予防・治療にもつながる」と期待する。

      これまで発表した論文は700以上、取得した特許は100以上にのぼる。産学連携にも熱心だ。98 年には米国でバイオ医薬品ベンチャーのオプティマーの設立に創業者の1人として参加。同社 は翁氏の特許を活用して成長し、アステラス製薬にも大腸の感染症の治療薬を提供している。

      物静かな語り口の翁氏だが次代を担う人材育成にかける思いは極めて熱い。その表れが昨年8 月に中央研究院の院長として打ち出した「人材宣言」だ。台湾はパソコンなどIT(情報技術) 機器の受託製造の世界的な拠点として知られるが、「産業分野が偏っており、学術界が育てた 多元的な人材を使いこなせていない」と舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判した。

      翁氏は人材宣言で台湾の行政院(内閣)に対し、産業構造の変革や優れた研究者を世界中から 呼び込むための具体策を提言した。人材育成の環境を台湾全体で整えることで「学術界と産業 界の距離を縮めたい」と意気込む。

      91-99年には日本の理化学研究所の研究チームに参加。いまでも家族で日本を旅行する大の親 日家だ。昨年3月の東日本大震災の際には日本の知人たちに急ぎメールを送り、「東北の研究 者のために中央研究院の施設を貸し出してもいい」と提案したほどだ。

      「日本にはまだ見習うべき点が多い。日台は学術・産業面でもっと緊密に協力すべきだ」と語 る。日台やアジアの発展のため今後も情熱を注ぐ覚悟だ。

      (台北=山下和成)

      国際賞数多く、日本でも研究
      1948年に台湾の嘉義県で生まれる。幼いころから化学に興味を持ち、台湾大学大学院化学研究 科を経て米マサチューセッツ工科大学大学院で博士号を取得した。

      教授になってからも寝食を忘れて研究に励んだが「苦労と思ったことは一度もない」と話す根 っからの研究者だ。細胞の表面で情報伝達を担う「糖鎖」を素早く大量に合成する画期的な技 術を開発。数多くの国際賞を受賞しており、2006年には台湾の最高学術研究機関である中央研 究院の院長に就任した。

      日本の理化学研究所に在籍した経験を通じ「仕事を綿密にこなす日本の研究者たちに非常にい い印象を持った」。台湾の若手研究者たちには「研究には多くの困難がつきもの。信念を持っ て継続すれば必ず突破できる」と熱っぽく語る。63歳。

      [2012年5月4日/日本経済新聞]

      スピーチ要旨

      難病治療の探求続ける

      「糖鎖化学」という学問分野に取り組んで30年。糖鎖は細胞の表面にあり、ウイルスなどをア ンテナのように感知する。糖鎖の分析は様々な疾患の治療につながる。私が開発したのは糖鎖 を合成する技術。重要なのは合成を大規模、迅速にするための技術だ。

      大量の糖鎖を作れるようになったため、新たな薬剤やワクチンの開発ツールとして使われてき た。がんや感染症のほか、インフルエンザやエイズウイルス(HIV)の研究にも役立っている 。乳がんワクチンは(製品化直前の)第3相臨床試験の段階にある。

      糖鎖化学はすでに重要分野だ。受賞で社会的認知がさらに広がってうれしい。今後も仕事を続 け、さらに重要な開発に役立てたい。がんや免疫疾病、感染症など多くの人が苦しむ病気を解 決する大きな力となるだろう。

      [2012年5月24日/日本経済新聞]

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    • 文化部門

      シビル・ウェッタシンハ氏 (右)
      絵本作家・スリランカ

      母国の自然や民族文化を織り込んだ作品は海外で翻訳され、子供た ちに愛されている。

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      シビル・ウェッタシンハ氏 (右)

      子ども心失わず、極上の物語描く

      こんなにも豊かな子ども時代を送った人が羨ましい。約80年前の少女の美しい記憶は、きらび やかな「宝石箱」。それを今も毎日そっと開けては極上の物語を紡ぎ出す。

      インド洋に浮かぶ島国スリランカの南部。城塞都市ゴール近郊のギントタという村で幼少期を 過ごした。これが絵本作家としての、そして人生の原点だ。「自分の中に生き続けてきた"子ど も"が今も本を描かせている」と言うように、声も身のこなしも若々しい。

      ギントタの人々は自然や動物と共存し、生活スタイルは極めてシンプルだった。幸せは共有し 、不幸な時は助け合った。誰も裕福ではなかったが、笑顔は絶えなかった。

      「傘なんて誰も持っていなかった。雨が降れば葉っぱや袋を頭に広げるだけ」。世界中で翻訳 されている代表作「かさどろぼう」は、そんな少女時代の記憶から着想した。傘を見たことも なかった村の男が、町で見かけた傘の美しさに心奪われ持ち帰る。でも、何度買ってもだれか に盗まれてしまう。その"犯人"は意外にも――。

      ごちそうにありつきたい一心で人間に変装したきつねと村人の化かし合い、切られるのがいや で逃げ出した男のヒゲ……。南国の鮮やかな色使いの絵とユーモア満載の物語には、思いやり や善悪の判断など、スリランカの「仏教的道徳観」がさりげなくまぶされている。読み手の子 どもは見たこともない、でもどこか懐かしい異国の情景の中にそれを見つける。

      「一生のうちで一番幸せだった」という村での生活は7歳の時に終わりを迎えた。当時の宗主 国・英国の教育を受けさせるため、両親はコロンボへの移住を決意。外国から来た修道女らが 教壇に立つ学校では、母語のシンハラ語を話すことを許されなかった。

      望郷の念は募るばかり。来る日も来る日も記憶をたどり、羽根ペンと黒のインクで村での生活 や風景を描き続けた。父親がその作品をコロンボのギャラリーに展示したところ、15歳の時に 教師用テキストに挿絵を描く機会が舞い込んだ。

      大学への進学を望んだ母親の反対を押し切り18歳で新聞社に就職。週1回、子ども用のコラム に、自身が母親や祖母から聞いた詩や物語の世界を4コマのイラストに描いたところ評判を呼 んだ。

      その後、別の英字新聞社で働いていた時、子ども面を担当していた記者がそばに来てこう言っ た。「なぜ、自分の物語を描かないの?」。そんな言葉に背中を押されて作ったのが「かさど ろぼう」だ。そしてこのアドバイスをくれた記者が、後の夫だ。1953年に結婚、2男2女をも うけた。

      大好きだった夫は24年前に他界。今はコロンボ郊外に、仕事場と寝室と台所だけの質素な家に 一人で住む。午前4時に起床し、頭にあふれてくる言葉や絵のイメージを書き留める。1つの 作品を完成させるのに約4カ月。多作ではないと謙遜するが、200以上の作品を世に送り出し てきた。

      家に招かれた日は蒸し暑い天気だったが、心地よい風が入るアトリエで絵筆を握る姿は少女の ようで愛らしい。「私は楽観主義。悲しいことは心に入れないようにしている」。難産だった 影響で、左目は生まれつき光がない。でも、それに気付いたのは32歳の時だというから驚きだ 。それまでは自動車の運転すらしていた。「私、距離感の才能があるみたいなの」とあっけら かんと笑う。

      「多くの人間は、大人になると"内なる子ども"を失っていく」という。「例えば、隣の家は車 があるのに、今、2台目を買おうとしている。人と競い合い、今持っているモノで決して心が 満たされないのが大人。だからいつまでたっても幸福を得られない」とは耳が痛い。

      「幸せな感情に包まれた子ども時代を過ごすことが、人生にとって最も大切なこと」というの が持論だ。昨今は、子どもたちや図書館への本の寄付や寒村での母親教室など、青少年健全育 成事業にも取り組む。

      2004年のスマトラ沖地震。ギントタの思い出の学校の校舎は津波がさらっていったが、お気に 入りだった校内の竹林だけは現在もシャンと立つ。今、一番憂えているのは東日本大震災で夢 や目標を失いかけている日本の子どもたち。「竹のようにしなやかで強く、しっかり根を張っ て生きるのよ」。子どもに向ける目はどこまでも温かい。

      (コロンボ=岩城聡)

      日本や北米にファン
      1928年、スリランカ南部のギントタ生まれ。難産で、祖父が自分の娘である母親を心配するあ まり、産後しばらく放っておかれた。哀れに思った医者が養子を申し出たほどだった。 7歳の時、英国式教育を受けるために両親とともにコロンボに転居。そのため、今も物語はシン ハラ語と英語のどちらが先に頭に浮かぶか自分でもわからないという。一方で絵は独学。「自 分の中の子どもと大人を調和させる」ことで創造性が生まれるという。
      スリランカの古い生活習慣や民族文化を切り取った物語は、母国だけでなく北欧や米国、日本 で相次いで翻訳され多くのファンを持つ。
      代表作は第3回野間国際絵本原画コンクール(1982年)で佳作だった「かさどろぼう」のほか 「きつねのホイティ」「ねこのくにのおきゃくさま」「にげだしたひげ」「わたしのなかの子 ども」(幼年記)。
      創作活動の合間にラジオで仏教の説法を聞くのが楽しみだ。「私、いつ死んでもいいの。でも 、まだこの世界に貢献すべきことがあるから輪廻(りんね)でもう一度この世に生を受けたい かも」。83歳。

      [2012年5月4日/日本経済新聞]

      スピーチ要旨

      子どもに幸せ届けたい

      スリランカに生まれ、崩れかけた家に住んでいたが、夢があった。木々や鳥、風、雨が話しか けてきて、雲は魔法のような楽しい時をつくってくれた。こんな幼少期の体験が私の絵本の背 景になっている。自分で絵を描くことを覚え、長い間絵本を描き続けてきた。80歳を超えた今 も心は子どものままだ。

      私の故郷は砂利道が舗装されオートバイが走るようになったが、田んぼや木々の中に「おとぎ の国」が残っている。人々の温かい笑顔も変わらない。幼少期の思い出をたぐり寄せて絵や詩 を創るのがお気に入りの時間だ。そうすることで子どもたちを楽しませたい。

      世界中の子どもが私の子ども。子どもが私の人生に刺激を与えてくれる。私が受けた名誉は母 国と、絵本を通じて私を愛してくれるすべての子どものものだ。幸せな感情に包まれた子ども 時代を過ごすことが、人生で最も大切なことだ。

      [2012年5月24日/日本経済新聞]

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  • 16th Winners

    2011

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    • 経済発展部門

      アントニオ・メロト氏 (中)
      ガワッド・カリンガ代表・フィリピン

      低所得者層の住環境の改善に尽力。約2,000の地区に20万軒の住宅 を建設するなど住民の生活向上に努めた。

    • 科学技術部門

      呉茂昆氏 (左)
      中央研究院物理研究所長・台湾

      高温超電導材料など様々な機能性材料を開発するとともに台湾の科 学技術振興に貢献した。

    • 文化部門

      バオ・ニン氏 (右)
      作家・ベトナム

      従軍体験に基づく長編小説「戦争の悲しみ」を執筆。ベトナムのド イモイ(刷新)文学を内外に知らしめた。

  • 15th Winners

    2010

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    • 経済発展部門

      トニー・フェルナンデス氏 (中)
      エア・アジアCEO・マレーシア

      格安航空事業で「空の大衆化」を推進。アジアの旅行ビジネスに大 きな影響を与えた。

    • 科学技術部門

      陳定信氏 (左)
      台湾大学医学部教授

      小児肝ガンの原因を究明。ワクチン接種による予防に力を尽くし、 台湾での発生率を低下させた。

    • 文化部門

      マントゥブ・スダルソノ氏 (右)
      ジャワ影絵芝居人形遣い・インドネシア

      伝統的な影絵劇ワヤンの操り手。様々な新機軸を打ち出し、魅力を 世界に伝承している。

  • 14th Winners

    2009

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    • 経済発展部門

      キラン・マズムダル・ショウ氏 (中)
      バイオコン会長・インド

      独自のバイオ技術と優秀な理工系人材の活用で、インド医薬品メー カー発展の新しいモデルを作った。女性経営者の草分け。

    • 科学技術部門

      マレーシア森林研究所(団体表彰) (左=代表 アブドゥル・ラティフ・モハマド氏)

      アジアを代表する森林研究機関として持続可能な森林経営や生物資 源の研究などを担ってきた。

    • 文化部門

      ラレットナ・アディシャクティ氏 (右)
      ガジャマダ大学大学院講師・インドネシア

      国に依存しない住民主体の「身の丈の遺跡保存」を提唱。乱開発を 防いだ。

  • 13rd Winners

    2008

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    • 経済発展部門

      中国政法大学公害被害者法律援助センター(団体表彰) (中=代表 王燦発氏)

      公害被害者の法律相談、法的解決を支援する団体。環境意識の向上 と社会の安定に力を入れてきた。

    • 科学技術部門

      C・N・R・ラオ氏 (右)
      ジャワハルラル・ネルー先端科学研究所名誉所長・インド

      材料科学者として大容量磁気記録技術や高温超伝導を中心に世界的 な研究をリードしてきた。

    • 文化部門

      安聖基(アン・ソンギ)氏 (左)
      俳優・韓国

      韓国の国民的映画俳優。近年の日中韓合作映画で韓国側のリーダー 的役割を担っている。

  • 12nd Winners

    2007

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    • 経済発展部門

      ミーチャイ・ウィラワイタヤ氏 (右)
      人口と地域開発協会会長・タイ

      1970年代から家族計画の普及・啓蒙運動を開始。コンドームを使っ たユニークな活動が一般大衆の関心を高め、タイの人口増加抑制や エイズ撲滅に貢献。

    • 科学技術部門

      張俊彦(チャン・チュンイェン)氏 (左)
      交通大学名誉教授・台湾

      台湾の半導体産業の生みの親。台湾で研究拠点を複数設立、ハイテ ク企業を創設する多数の人材を育成した。

    • 文化部門

      ゴーパル・ベヌ氏 (中)
      ナターナ・カイラリ〔伝統芸術研究研修センター〕所長・インド

      消滅の危機に瀕していた2000年の歴史を持つサンスクリット古典劇 「クティヤッタム」上演の復活に尽力。

  • 11st Winners

    2006

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    • 経済発展部門

      オリビア・ラム氏 (右)
      ハイフラックスCEO兼社長・シンガポール

      人口増加や経済発展による世界的な水不足を予想。下水を高度処理 し飲料水や工業用水にする技術を開発。

    • 科学技術部門

      フィリップ・ヨー氏 (左)
      シンガポール科学技術庁長官

      シンガポールの科学技術戦略の立案・遂行に手腕を発揮。同国をバ イオ・医療の主要な研究開発拠点の一つに育てた。

    • 文化部門

      ソピリン・チアム・シャピロ氏 (中)
      舞踊家・カンボジア

      クメール・ルージュ時代に荒廃したカンボジアの文化環境を立て直 すべく、伝統舞踊の復興に力を入れる。

  • 10th Winners

    2005

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    • 経済発展部門

      張忠謀(モリス・チャン)氏 (中)
      台湾積体電路製造(TMSC)会長

      半導体製品を受託生産するファウンドリーという事業形態を確立した。

    • 科学技術部門

      高明三(コ・ミョンサム)氏 (右)
      ソウル大学名誉教授・韓国

      韓国の半導体産業や電子機器産業の技術発展の基礎を築いた。

    • 文化部門

      郭大烈(クオ・ターリエ)氏 (左)
      雲南民族学会会長・中国

      雲南省のナシ族が使っている世界に現存する唯一の象形文字である トンパ文字の保護、伝承に貢献。

  • 9th Winners

    2004

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    • 経済発展部門

      ムハマド・ユヌス氏 (左)
      グラミン銀行総裁・バングラデシュ

      少額融資という独自の無担保融資システムを普及させ、自国や他の 発展途上国の貧困撲滅に貢献。

    • 科学技術部門

      ヨンユット・ユッタウォン氏 (中)
      タイ国立遺伝子工学バイオテクノロジーセンター主任研究員

      マラリア原虫の研究で先駆的な成果を残し、タイの科学技術研究体 制の整備、人材育成も推進。

    • 文化部門

      アルバート・ウェント氏 (右)
      作家/オークランド大学教授・サモア

      口承で伝えられてきたサモアや太平洋島嶼諸国の文化をリリカルな 英語で表現、世界に紹介。

  • 8th Winners

    2003

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    • 経済発展部門

      李憲宰(イ・ホンジェ)氏 (中)
      韓国元財政経済相

      韓国の金融・産業改革の立役者。大胆な銀行再編・公的資金投入で 経済を再建。

    • 科学技術部門

      楊煥明(ヤン・ホアンミン)氏 (左)
      北京ゲノム研究所主任・中国

      長粒種イネ(インディカ米)のゲノム解読を世界で初めて実現した グループの中心人物。

    • 文化部門

      ウルワシー・ブターリア氏 (右)
      作家/「女たちのカーリー」出版社共同創設者・インド

      インド初の女性問題出版社を創設。主著では印パ分離の際の混乱と 悲劇を女性の視点から描いた。

  • 7th Winners

    2002

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    • 経済発展部門

      ヴォー・トン・スワン氏 (右)
      アンザン大学学長・ベトナム

      新品種の導入や農業従事者の指導により、メコンデルタにおけるコ メの大幅増産に成功。

    • 技術開発部門

      マラヤ大学医学部医科微生物学部門(団体表彰) (中=代表 ラム・サイ・キット氏)
      マレーシア

      マレーシアで発生した致死性脳炎の原因ウイルスを分離、感染経路 も解明、疾患の拡大を食い止めた。

    • 文化部門

      クリスティン・ハキム氏 (左)
      女優/映画制作者・インドネシア

      庶民の暮らしを描く優れた社会派映画を制作、共同制作などを通じ アジア映画の発展にも貢献。

  • 6th Winners

    2001

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    • 経済発展部門

      ナラヤナ・ムルティー氏 (左)
      インフォシス・テクノロジーズ会長兼CEO・インド)

      インドのIT産業を代表する優良企業を育て上げ、技術者育成にも熱 心に取り組む。

    • 技術開発部門

      李鎬汪(イ・ホーワン)氏 (中)
      大韓民国学術院会長

      腎症候性出血熱の原因ウイルスを発見、その血清診断法ならびに不 活化ワクチンを開発した。

    • 文化部門

      ネワール語辞書委員会(団体表彰) (右=代表 テジュ・R・カンサカル氏)
      ネパール

      地域の歴史や文化、宗教の研究にとって重要な「古典ネワール語辞 書」を編纂し、出版した。

  • 5th Winners

    2000

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    • 経済発展部門

      スパチャイ・パニチャパック氏 (右)
      タイ副首相兼商業大臣

      タイの市場経済化とASEAN地域の貿易自由化、域内協力の推進に貢 献。

    • 技術開発部門

      国立シンガポール大学付属分子細胞生物学研究所(団体表彰) (左=代表 Y・H・タン氏)

      生命科学分野でアジア初の拠点研究所となり、アジアの生命工学の発展に貢献。

    • 文化部門

      ピンヨ・スワンキリ氏 (中)
      建築家・タイ

      タイの伝統建築物の保存に30年以上従事し、設計、教育を通して歴 史的建物の再生に貢献。

  • 4th Winners

    1999

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    • 経済発展部門

      許文龍(シー・ウンロン)氏 (中)
      奇美實業董事長・台湾

      合理的経営に徹し世界最大のABS樹脂メーカーを育て上げ台湾経済 の発展に寄与。

    • 技術開発部門

      趙其国(チャオ・チークオ)氏 (左)
      前中国科学院南京土壌研究所所長

      中国全土の土壌分布を研究、土地改良に指針を示し、農業生産の拡 大に貢献。

    • 文化部門

      ダン・ニャット・ミン氏 (右)
      ベトナム映画人協会会長/映画監督

      芸術表現の自由を尊重し、アジアの心を世界に伝える優れた映画を 制作。

  • 3rd Winners

    1998

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    • 経済発展部門

      倪潤峰(ニイ・ルンフォン)氏 (右)
      四川長虹電子集団公司董事長兼総経理・中国

      市場経済原理に基づき国有企業改革を進め、中国の発展に貢献。

    • 技術開発部門

      マレーシアゴム研究所(RRIM)(団体表彰) (中=代表 アブドル・アジズ氏)

      品種改良や規格作りで天然ゴムの品質を向上、世界の天然ゴム生産拡大に寄与。

    • 文化部門

      金正鈺(キム・ジョンオク)氏 (左)
      劇団「自由」創立者/芸術監督・韓国

      アジア的な思想や文化を土台に、グローバルな舞台芸術を創造。

  • 2nd Winners

    1997

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    • 経済発展部門

      マンモハン・シン氏 (右)
      上院議員/元インド蔵相

      規制緩和と市場開放を柱とした多岐にわたる経済改革を推進し、安 定的な経済発展の基盤を構築。

    • 技術開発部門

      崔亨燮(チェ・ヒョンソプ)氏 (中)
      韓国科学技術団体総連合会会長

      技術者育成を重視した科学技術政策を立案・実行し、技術と産業の 発展に寄与した。

    • 文化部門

      ホセ・マセダ氏 (左)
      フィリピン大学名誉教授

      アジア音楽特有の構造を解明し、その理論に基づく作曲活動を展開 。アジア文化の再評価に貢献した。

  • 1st Winners

    1996

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    • 経済発展部門

      ウィジョヨ・ニティサストロ氏 (右)
      インドネシア国家経済顧問

      30年にわたりスハルト大統領の助言者として市場原理を重視した経 済政策を導入し、経済の発展に貢献。

    • 技術開発部門

      袁隆平(ユアン・ロンピン)氏 (左)
      湖南雑交水稲研究中心主任・中国

      12億人の食料をまかなうために高収量のハイブリッド米を開発、普 及させ、食糧の増産を実現。

    • 文化部門

      ダラー・カンラヤ氏 (中)
      ラオス情報文化省文芸文化局副局長

      ラオスの古典である貝葉(ばいよう)文献を丹念に発掘、編纂し、 民族文化の保存と振興に尽力。

1st Winner

2021

Who's Next?

日経アジアアワードの初回の受賞者は、2021年12月の発表予定です。

第1回推薦エントリーは
こちら